イタイ子痛い子飛んでけー

僕が受けた2006年度センター試験は、国語の問題に萌えた人がたくさんいた…かどうかは知らないけれど、少なくとも僕の一友人は萌えていました。
松村栄子・著『僕はかぐや姫』(ISBN:4828832793)という小説のせいです。

次の文章は、松村栄子の小説「僕はかぐや姫」の一節である。千田裕生と辻倉尚子は女子高校の同級生である。彼女たちは二人とも文芸部員で、自分のことを「僕」と呼んでいた。これを読んで、後の問い(問1〜6)に答えよ。


いわゆる「ボクッ娘」というケースに該当するらしいです、こういうの。
そのボクッ娘たちは「孤立を気取り、解釈されるのを何よりの屈辱と感ずる」ヒネクレ者でして、二人の会話が、これ。

「<二十億光年の孤独>を読んだ?」
「……うん。泣いた、僕」
キルケゴールが……もちろん、読んだって半分もわからないんだけど……本を開いただけで苦しくなって……」
「<死に至る病><わたしにとっての真理>……僕らをひとことで殺す文句だ」


なんというか、不思議な子というか、むしろなかなかにイタイ子です。
そして、イタイ子である僕はそこそこに共感します。
実際にはわかりもしない哲学のコトバを使って自分のことを考えるのは、いつだってとても愉快でしたし、この世界への違和感とか反感を表すために、訳の分からない趣味・趣向で他人からの解釈を拒み、孤高を気取らなくては生きていけなかったのですから。


でも、まあ、そこそこに、です。
僕にとって本当に痛い部分というのは、実際にはここのところでした。

尚子の方は部会に出てこなくなり、会えばからからと空虚に笑うようになった。尚子の魂はくぐもったベールに包まれ、三年になって同じクラスになってみると、いつしか彼女は<あたし>という一人称を身につけていた。


せっかく自閉していた世界が、切り開かれてしまう痛みとでもいうのでしょうか。
「僕」よりも「あたし」である方が、本当は幸せに決まっているのに、でも、何かそれは空虚で、この世界に負けてしまったような気がするんです。


この世界というのはどうしようもならない「痛い」ことで満ちあふれていて、そんな痛みから逃れるために、僕らは「イタイ」世界へと飛んでいくんだけれども、でもその自閉した世界はやがて外の世界に溶かされてしまうから、結局「痛い」世界に着地せざるを得ないというような絶望感。


センターが終わった後、この文章に萌えた友人は、
「ボクッ娘最高テラモエス
とかいうイタイメールを僕によこしてきました。


僕は、そのメールを見て笑って、この痛い世界からちょっとだけ飛び上がったのでした。


でも、どうしようもならないことに、思うがままにイタくいれた中高一貫男子校の受験期は、その後すぐに終わってしまい、為す術なくいまここに着地させられてしまっていて、一体この後どうするべきなのか全く分かりませんけど、僕はとりあえずからからと空虚に笑って切り抜けられたら、と思ってます。


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