お父さんお母さんへの手紙

お久しぶりです。相変わらず、朝は「吉田照美 ソコダイジナトコ」(文化放送)を布団の中で聴いて起きているのですが、最近「お父さんお母さんへの手紙」(製作著作:中部日本放送)というコーナーが気になっています。
小学生が両親への感謝の気持ちをつづった作文を流すコーナーなのですが、感謝する理由として「お父さんは○○を買ってくれます」だとか「お母さんは○○に連れて行ってくれます」だとかいう表現がやたらと多い気がするんです。なんとも現金な子供たち。あんたら、そんな資本主義の犬でいいのか!?


これを聴いていつも思い出すのは、『続・北川透詩集』(思潮社<現代詩文庫>/1994/asin:4783708916)に載っている「<地方−風土>の衰滅」という評論です。


内容をかいつまんで紹介しますと…
かつて、村の家は禁欲的・戒律的な父(=家長)のもとにあり、子からは抑圧的な共同体の一部として憎悪をむけられる所でした。北川透は「岡井隆の初期の短歌」から、そうした家を≪くらき家≫と呼んでいます。
もっとも、村の家は母に象徴されるような慰楽の場所=≪闘わぬ城≫(これも岡井の短歌より)でもあります。
「父の≪くらき家≫との対峙やたたかいが、文学を自立させる」、「母の≪闘わぬ城≫への快い同化は、眠りへの退行へ誘う」…こうした視点から、北川は近代文学の一側面を追っていくのです。


しかし、いまや<地方−風土>は衰滅しました。抑圧的な村の共同体は解体してしまったのです。その時、家はどうなったのか。北川は書きます。

それでは、故郷の≪くらき家≫は何に変ったのでしょうか。ぼくは<欲望する家>が出現しているように思います。(中略)都市と農村、都会と地方は、欲望と消費によってこそ、恐るべき勢いで均質化してゆきつつあります。


因襲的なものによってではなく、欲望によって家が成立する。まさしく「お父さんは○○を買ってくれます」の世界ではありませんか!


ついでに言うと、僕が適当に書きちらす文章に共通するテーマは、欲望に対する憎悪なのでありまして…。
自分は人並みに欲望することができないゆえに孤独なのだという考えは、高校時代から僕の心に巣くっていました。
そして、共同体が(家族というごくプライベートなものにいたるまで)欲望によって成立するのであるとすれば、質や量の「正常」でない欲望があらゆる共同体からの疎外につながるのは当然だといえるでしょう。


飢餓、すなわち欲望が満たされないことへの怒りではなく、欲望そのものへの怒り。これを突き詰めてみたら、一体どこに辿り着くのか…?
などと考えながら、布団の中でラジオを聴いていると、いつの間にか二度寝してしまうのでしたとさ。