すがねじめ

旧制高校に入ってから闇雲に本を読みはじめ、ゲーテ河合栄治郎に驚いた北杜夫「カントを読んでいよいよ最大限にびっくら仰天した。なんとなれば、書いてあることが神明にかけて理解できなかったからだ。そのくせ私は、『カント曰く』などと言うようになった」*1そうです。
理解できないからこそ余計有り難いという現象はコッケイですが、しかし「わけわからん!」という驚きは、やっぱり本との幸福な出会いの一形式なんだと思います。


最近、ねじめ正一・著『ねじめ正一詩集』(思潮社<現代詩文庫>/1987/asin:4783708428を読んでいたんですが、「作品論」として載っているすが秀実*2「複製の王国」の理解できなさにびっくら仰天しました。
これも何かの縁なので、すが秀実・著『1968年』(筑摩書房ちくま新書>/2006)を購入。
前に「僕は擬似的に『全共闘に間に合わなかった世代』にもなってしまった」(http://d.hatena.ne.jp/nise-jukensei/20091126)と書きましたが、まあそういう問題意識で。


1968年 (ちくま新書)

1968年 (ちくま新書)


この本は、「あとがき」で「できうるかぎりリーダブルであることを心がけた」と書かれている通り、「わけわからん!」ということはなかったです。ってか、基本的に不勉強な僕は、しばらくこの本の枠組みに影響され続けることになるのではないかと。


1つ1つ説明しても仕方ないので、太田竜のことに絞ります。太田竜については09年11月13日の記事(http://d.hatena.ne.jp/nise-jukensei/20091113)の、特に注2を参照して下さい。
新左翼の大物だった太田竜が、過激なエコロジー主張等を経てユダヤ陰謀論へ向かったことを、僕は「逸脱」としてしか捉えていませんでした。
しかし、すがは太田の遍歴を「1968年」以降の流れの1つとして位置づけるのです。


僕の理解の及ぶ限りでまとめてみますと、1970年の「華青闘告発」によって、(日本人男性が指導する)日本の新左翼は「歴史」(=世界革命)の「主体」たることを否定され、かわって各種のマイノリティ(「在日」、アイヌ琉球被差別部落、女性…etc.)が「主体」たりうることが意識されました。
そうした中で、マジョリティの「正史」に対するマイノリティの「偽史」が発達し、「偽史的想像力」が後のサブカルチャーの隆盛につながっていきます。
そうすると、「辺境最深部に向かって退却せよ!」と叫び、「辺境」からの「偽史的想像力」を膨らませていった太田が、後に「ユダヤの陰謀」という偽史サブカルチャーに向かったのも自然だということになります。
本書では触れられていませんが、太田の脱党した第四インターナショナル日本支部が、後に「性差別問題」で分裂していったことも、非常に示唆的だと思いました。


そんなわけで、自ら革命の「主体」たることを断念した新左翼ですが、その後内ゲバが始まることになります。
「革命」そのものであるとして遂行される内ゲバは、すがの言葉を借りれば、「われわれは内ゲバが革命などでないことを知っている、だからこそ、それを革命として遂行しなければならないのだ」*3というシニシズムなわけです。


自らが「主体」たることを断念し、鉄パイプを握ってシニカルな「革命」=内ゲバへと突進していく新左翼の姿。
と、ここで僕にはその姿が、すがが「複製の王国」で解説したところの、「ハリボテ」の「魔羅」を握って「呆れるほどステロタイプ」の物語へ突進していくねじめ正一の姿とかぶって見えてきたのです。
それはやはり、叙情詩の断念と表裏一体の関係にあるのでしょう。


うーん、いま色々考え中。
とりあえず、次は伊藤比呂美詩集』を読みます。

*1:『どくとるマンボウ青春記』より

*2:「すが」の正しい表記は「糸」へんに「圭」である。

*3:原文では「だからこそ」に傍点が付されている。