身体との違和、とか

僕は好き嫌いなく何でも食べてしまうのですが、それを改めて考えてみるとなんだか阿呆のような気がして、あまりいい思いがしません。
なにより、好き嫌いなくなんでも食べて、たくさん食べすぎて、しまいには胃腸をおかしくしてしまう癖があって、なんとも身体を粗末にしています。
去年など、それで年に4回入院してしまいました。
そもそも好き嫌いがないというのは、頭が阿呆というより身体が阿呆なのではないでしょうか。
僕は、食物に限らず、身体で事物を好きになるということが、まずありません。
僕が事物を好きになるためには、必ず言葉が要ります。
僕がこのブログで、tvk文化放送や地方紙・専門紙のたぐいを語っているのは、それらが好きだからではなくて、たぶんそれらを好きになるためなのです。


閑話休題
以前予告した(http://d.hatena.ne.jp/nise-jukensei/20091202)通り、伊藤比呂美・著『伊藤比呂美詩集』(思潮社<現代詩文庫>/1988)を読みました。


伊藤比呂美詩集 (現代詩文庫)

伊藤比呂美詩集 (現代詩文庫)


予告のとき、ねじめ正一の話の後で、なぜ唐突に伊藤比呂美の名前を出したかというと、僕にはきちんと読む前から伊藤比呂美ねじめ正一を対置する意識があったためで、だからこれからの読書感想文はものすごく一方的な先入観に影響されていることをあらかじめご了承願います。


ねじめ正一の詩は虚構です。もっとも、その虚構は書き手の「主体」を必要としていないように見えます。だから、虚構の中の「魔羅」はどこまでいっても「ハリボテ」です。
一方で、伊藤比呂美の詩も、これはもう大した「虚構です」(ずばりそういう題名の詩まである!)が、その虚構は書き手の「主体」をまだ必要としているように見えます。
胎児を「ウンコ」と呼び、「大便みたいに/産もう」(「霰がやんでも」より)と言う虚構には、その書き手として「ハリボテ」でない身体をもった「主体」を、どうしても想定したくなります。


私と身体との違和。それを調停するための虚構。
とっても浅い読みだと思いますが、僕はそんなことを考えながら、この詩集を読みました。
(もっとも、再読したら印象は変わるでしょうね。それが本、なかんずく詩集というものの運命であるし、なにより今回はひどく先入観をもって読んでいますので。)


さて、僕は身体との違和というのをさっぱり感じたことがありません。
なんというか、身体との違和を語るのはひどく「ミーハー」なことだと、軽蔑してさえいる自分がいます。
むしろ、身体の沈黙と言葉の過剰が僕の気がかりでありつづけました。
おかげで好き嫌いなくなんでも食べすぎて胃腸を壊して入院するはめになりました。
とすると、身体との違和への軽蔑は、嫉妬の現れなのかもしれません。
僕の身体は、どこまでいっても「ハリボテ」なんですから。


以上、たわけた自分語りおしまい。
某大学合唱団の演奏会のため川口に行ってきます。