留年主体性論

「本当の自分とは何か」と問うことは、「わたしは今日カツ丼を食べるでしょうか」と人に聞くのと同じで無意味だと土屋賢二は言う*1のですが、確かに、カツ丼を食べるかどうかは自分がこれから選択することだとはいえ、本当にカツ丼を食べるべきかどうか、すなわち、自分が本当にカツ丼を食べたくて、かつ食べられるのかどうか迷ったときには、ついつい「わたしは今日カツ丼を食べるでしょうか」と人に聞きたくなってしまうのが人情じゃないでしょうか。


そんなわけで、就職活動における自己分析がしばしば不毛な「自分探し」になってしまうことはよく指摘されるところのようですが、とはいえやはり、内定辞退&留年で皆さんに大迷惑をかけてしまった今、カツ丼を食べるならカツ丼を食べるということを「主体的に」引き受けておかねばならなかったと反省しております。
…なんてね。
僕が自分のことを現代人というよりむしろ近代人だと思うのは、なんだかんだ言って自分は「主体」でありたいと思っているし、「主体」たり得なければ苦しいと感じるからです。


安部公房・著『壁』(新潮社<新潮文庫>/1969/asin:4101121028には、名刺やネクタイや万年筆などの物が革命の相談をする喜劇的なシーンがあるのですが、その中で「そうだ、われわれ物質は主体を恢復しよう。」とか、「こういう理論を主体的に把握するために時間をかけねばならん。」とかいうセリフが出てくるのを読んで僕は、ああ結局自分はここから政治性を抜いただけのような問いの立て方しかできないのだなあと、自嘲的な気分になったのでした。
革命の「主体」たることを断念した上での内ゲバhttp://d.hatena.ne.jp/nise-jukensei/20091202)とか、「ロリコンまんが」における「犯す」主体の喪失*2とかを、自分語りのためのツールに使えないかと思ってしまうセンスの人なので…。


さらなる問題は、自ら「主体」たらんとする一方で、自分を辺境に置くことによって「主体」たることを忌避しようという衝動もまたあることで、新左翼やらエロ漫画やらといった辺境的な領域の事象を使って自分語りをやらかそうと思う時点で、いくらその語りが表向き「主体」の断念/喪失への悔恨に満ちているとはいえ、実際には体よく「主体」をのがれようと企んでいるのは明らかなのです。
そして、なんといっても西洋古典学という専攻を選んだこと自体が、辺境への逃避そのものでした。
にも関わらず、「主体」を放擲して就職しようとする間際になって、もう一度「主体的に」西洋古典学を選び直した己の喜劇的なることよ。


もっとも、今回の留年劇の裏には、卒業論文のテーマにした「主体的恋愛詩人」プロペルティウスの存在がありまして、もちろん古代ローマ人のプロペルティウスに近代的な「主体」を想定してはいけないでしょうが、それでも「あの健康無比な叙事詩の世界」*3から遠く離れ、“僕と彼女が裸で格闘したら、僕らは長い『イリアス』を作ることになる”*4とか阿呆なことを書いた彼の「私詩」と、僕は一度「主体的に」格闘してみたくなったのです。
とにかく、こうなってしまったからには、やるっきゃない。


しかし、こんな風に“わたしは今日カツ丼を食べる!”と宣言するのも、無意味かどうかはともかく、喜劇的なことでありますね。
プロペルティウスの詩にたびたび現れる“わたしは恋愛詩を書く!”という宣言の喜劇性に、僕はやたらと親近感を覚えてしまうのです。


Elegies (Loeb Classical Library)

Elegies (Loeb Classical Library)

Sexti Properti: Elegos (Oxford Classical Texts)

Sexti Properti: Elegos (Oxford Classical Texts)

*1:土屋賢二・著『ツチヤ教授の哲学講義』(岩波書店/2005/asin:4000013998)177〜179ページ

*2:大塚英志・著『「おたく」の精神史』(朝日新聞社朝日文庫>/2007/asin:4022643943)84ページ

*3:前掲『壁』収録の佐々木基一「解説」より

*4:第2巻1番から。テキトーな意訳です。