黒田三郎詩集

相変わらず、積読タワー取り崩し中。
“時は金なり”ですから、1日で読み終えられるだろうと予想できて、かつ1日で読み飛ばしてしまっていいような本は、実際1日で読み終えるようにしています。


とはいえ、今日読んでいた黒田三郎詩集』(思潮社<現代詩文庫>/1968/asin:4783707057は、別に1日で読み終えるつもりはなかったのに、大学の行き帰りの電車だけで、気がついたら「詩篇」パートを全部消化していました。
詩ってのはそんなにがつがつ読むべきものではないと心得ているはずなのに、それでも自然と量を読まされていたのはどうしたことでしょう。


その理由ではないかと感じるのは、詩の並びが非常にまっすぐに物語を形作っていることです。
戦前の内面的な孤独を書いた詩(“私の上にのしかかる/私の重さに/耐えかねて” 「けし」より)から、その孤独と戦後の社会的混乱が交わったところに生まれたニヒリズムの詩(“死のなかにいると/僕等は数でしかなかった/臭いであり/場所ふさぎであった” 「死のなかに」より)へ。
価値は恋愛詩(“風のように気まぐれな少女よ/そのとき僕はあなたの眼のなかによんだのだ/その言葉を/「明日はある/信じなさい 明日はある」” 「明日」より)によって取り戻される。
その後、つつましやかな家庭生活。しかしそれは、妻が病を得ることにより、無力感に耐えながらも娘ユリの面倒をみている詩(“歩いているうちに/歩いていることだけが僕のすべてになる/小さなユリと手をつないで” 「小さなあまりにも小さな」より)へとつながっていく。


ああ、なんて平凡な物語だろう!
でもそれはそれでいいと思ってしまうのは、僕が年をとったからでしょうか。