開放区より愛をこめて

ぼくらの七日間戦争


いまから2000年前とかの文章を読んでいる僕は、どうにも理解できない文章があったら、それは書いた人と僕の生きてる時代が違うせいで読めないのだとか思ってしまうのですが、この前、国文学(近代)専攻のながはるさんに、そもそも「他人の書いたもんなんて分かんないよ」と言われてしまいました。


ごめん調子乗ってた…。


けれど、時代の違いのせいで読めなくなってしまった文章を、ふたたび読めるようにしていくというのは、やっぱり必要な仕事だと思うのです。


昨年末、ブックオフでたまたま手に取った宗田理・著『ぼくらの七日間戦争』(角川書店<角川文庫>/1985)
カバーの写真があまりに80年代!*1な上、中学生たちが「管理教育」に反抗して「解放区」(もちろん彼らの親世代が担った全共闘からの引用)を作るという、これまた80年代!的なストーリーに反応し、そのまま購入。
80年代と現代との「時代の違いのせいで読めなくなってしまった」部分をつついてみると、少し面白いかもしれないと思ったのです。


ぼくらの七日間戦争 (角川文庫)

ぼくらの七日間戦争 (角川文庫)


一番違和感があったのは、「解放区」の発案者・相原がクラスメイトの女子2人に計画を話すシーンに登場する、以下の言葉でした。

相原は、覚悟を決めたように、解放区計画を話した。二人は息をつめるようにして聞いていたが、
「楽しそうじゃん。あたしたちも仲間に入れて」
「だめだよ。男と女がいっしょに立てこもったら、おとなたちはなんて言うと思う?」
「不純異性交遊?」
「それだけで、文句なしにパクられちまうぜ」
(49ページ。太字強調引用者)

「不純異性交遊」!!ものすごい久しぶりにその言葉を聞いたよ!87年東京生まれの僕にとってはすでに死語なんですが…「時代の違い」か。


おかしいのは、「解放区」(河川敷の工場跡)にクラスの男子全員で立て籠もった時点で、普通なら「文句なしに」大人たちの強制的介入があるのは火を見るよりも明らかなのに、あたかも「不純異性交遊」がなければ介入されないような言い方がなされ、ってか実際この物語では、「解放区」ができてから1週間ものあいだ大人たちは武力突入してこないことです。
あまりにリアリティがなさすぎるのですが、その後にもう一度「不純異性交遊」という言葉が登場するシーンで、このおかしな状況はさらに明確になります。


それは、大人たちが集まって話し合っているとき、クラスの女子もどこかへいなくなくなってしまったことが分かり、「解放区」への合流が疑われるというシーンなのですが、そこで、ある娘の父親が言うセリフが奮っているのです。

「もしそうだったら、これはたいへんなことですぞ。不純異性交遊だ。警察はすぐ解放区へ行って捜索してください」
(191ページ)

おい!!この親父さんほんとに「不純異性交遊」があってはじめて「解放区」に介入できると思ってるよ!


このセリフについては、はなっからリアリティのないお話なんだからマジメに取る必要はないという説、いやいやこの時代には「不純異性交遊」は立て籠もりなんかより重罪だったのだという説、むしろ立て籠もりには介入しないのに「不純異性交遊」には介入しようという大人たちの歪んだ規範意識を戯画化しているのだという説など、後世の読み方が分かれそうであります。*2


さて、このことについてあまりマジメに論議しても仕方がないのですが、しかし「不純異性交遊」という言葉が消えていったことの意味というのは、少し論じられなければならないでしょう。


「人間は恋と革命のために生れて来たのだ」といえば太宰治です。
ぼくらの七日間戦争』においては、あたかも「解放区」=「革命」よりも「不純異性交遊」=「恋」の方が弾圧されているように読めてしまうのですが、もちろん、たとえば「反管理教育運動」の指導者であった保坂展人・前衆院議員が運動の出発点としているのは、革命党派系の集会に参加したため弾圧されたことであるように、「管理教育」は「革命」をちゃんと弾圧していました。
ただ、「不純異性交遊」という言葉が殆ど死語になった現在、「恋」は弾圧の対象ではなくなったのではないかと思うのです。
一方、「革命」は、そもそも目的たりえなくなりました。それは、共産主義の没落とかいう問題よりも根が深く、例えば『ぼくらの七日間戦争』のような「大人たちへの反抗」は、現在では少なからずアナクロニスティックでしょう。
というわけで、「管理教育」も、「反管理教育運動」も、存在の基盤を失ったように見えます。


後に残ったのは「人間は恋のために生れて来たのだ」(しかしその恋は弾圧されない!)とばかりに、恋愛関係やら友達関係やらの、自己目的化され内閉化された人間関係だけが幅をきかすような世界ではなかったでしょうか。
とすれば、いま子供たちに必要とされているのは、大人たちからの「解放区」を作ることではなく、自分たちのコミュニティを(大人たちを含めた)外部に対しての「開放区」とすることなのではないでしょうか。
最近のコミュニケーション能力物神崇拝みたいなものを見るにつけても、強くそう思います。


人間は革命のためにも生れて来たのだ!


ヨコハマ開放区より
愛をこめて

*1:88年に公開された映画版からのもの。この映画は宮沢りえさんの初主演作品だそうです。

*2:もっとも、正解は「そんな後世まで長い間は読み継がれない」だと思いますが。