恋愛がなんぼのもんじゃい

幼い頃、“(ポピュラー音楽は)なぜラブソングばっかりなのか?”と親に尋ねて困惑させたことがあるのですが、考えてみればいまだにそう思ってます。一体なんでなんだぜ?それに、ラブソングそのものじゃなくても、かなりの高確率で宛先不明の「あなた」が歌詞に混入されてません?
恋愛がなんぼのもんじゃい。


そんな僕なので、高校の国語の先生から(当時の生徒全員に)プレゼントされた武者小路実篤・著『友情』(新潮社<新潮文庫>/1947)を、最近まで読まずに放っておいてしまいました。カバーに「凛乎とした清冽な調子の中に青春期における友情と恋愛との相剋を描いた武者小路文学の代表作」とか書いてあるんだもの。
…そうそう、僕は「友情・努力・勝利」の『ジャンプ』も読まないのです。


友情 (新潮文庫)

友情 (新潮文庫)


しかしながら、部屋の片づけで掘り出されたのを機に、今回読んでみました。
ちょうど武者小路らの『白樺』は創刊100周年だそうですし。


まず「友情」ってのは、脚本家の野島と新進作家の大宮の間のものなのですが、同じ文学を志す者同士としての友情ってのが、実に近代的ですね(現代的ではなく)。
そして「恋愛」ですが、野島が杉子という娘に恋をして、大宮は親友として野島の応援をするけれど、杉子は大宮の方が好きで、やがて大宮もそれに気づいてしまうという、そんな感じのベタな三角関係です。
友情と恋愛の板挟みになった大宮は西洋に去るのですが、杉子の方から大宮に手紙を出して求愛します。
それなんてエロゲという感想はおいといて、『友情』は1920年の作だそうですが、女性の方からこんな風にモーションをかける描写の生まれる時代だったんですね。
で、結局大宮と杉子がくっつくことになって、野島は大宮に「仕事の上で決闘しよう」などと手紙を書いて、見事なNTRエンドとなります。


「恐ろしい勢いで俺は二人でなければ生きられなくなりつつある」(147ページ)とかいう言葉は、いまの僕にとって最も吐き気を催すフレーズの1つなのですが、こういう感性が浅く広く俗っぽく世界を覆って、それこそラブソングからエロゲまで、様々なものの温床になっているのでしょう。
まあ「うた」なんかは、古来から色恋沙汰とともにあるんでしょうが、しかし今の「ラブソング」が前提にしているのは近現代的な「恋愛」であって、あえて奇矯な言い方をすれば、前近代にエロゲが作られ得なかったように、前近代に「ラブソング」は作られ得なかったわけであります。


だからどうした?と言われれば、別になんでもないんですが、しかしもう一度言っておきましょう。
恋愛がなんぼのもんじゃい。