星新一展・『週刊読書人』

週刊読書人


きょうは、世田谷文学館で6月27日まで開催されている「星新一展」に行ってきました。
僕が人生で最初に読んだ文庫本は、星新一・著『未来いそっぷ』(新潮社<新潮文庫>/1982/asin:4101098263であり、その後もながらく星新一のショート・ショートを愛読してきたので、行くっきゃなかったのです。
なお、なぜこのタイミングだったかというと、地域のお祭りが文学館の前で行われたのに連動して、きょうは観覧料無料になっていたからなのでした。せこくてごめんよ。


入口のところで、4月30日に行われたこの展覧会の記念座談会の内容を1面トップにした書評紙週刊読書人』(5月21日付)を売っていたので、買ってみました。
ここで、その座談会の記事から引用するのですが、

最相 早速ですが、展覧会で展示されている星新一さんの遺品をご覧になって、お二方がどうお感じになったかお聞きしたいと思います。(後略)
新井 下書きのメモがものすごく細かい字で書いてある、あれは一見の価値がありました。読めないくらい小さいですが、星さん、老眼にならなかったのでしょうか。(後略)
最相 書き損じた四〇〇字詰原稿用紙を二つに切った裏側に、端から小さな字で書いていって一つのショートショートが、横五センチ、縦二〇センチほどのサイズに収まっています。(後略)
(中略)
加藤 あそこまで小さい文字のメモとは思いませんでした。単行本を出すときに、星先生が、収録の全タイトルを原稿用紙一枚に割合小さい字でお書きだったのですけれど、その元はそれどころではない、ということが分かりました。*1


…というわけで、下書きのメモが最初の話題になっています。


実際に展示されていたそれを見て、確かにものすごく細かい字だと驚きました。
掌編小説という言葉があったりしますが、そのメモにおいては本当に一編が掌の中に収まってしまうのですから、これはちょっとただごとではありません。
なるほど「一見の価値があ」るなと感じますし、星新一は自らの作品を、何かこう、掌の上に乗せて彫刻するかのごとく作っていたのではないかと、根拠もなく思ったりしてしまいます。


さてさて、実は書評紙というやつを買うのは、今回の『週刊読書人』が初めてです。
読んで思ったのは、これに載っている記事という名の散文たちが、倦まずたゆまず毎週毎週世の中に出されているだけでなく、書評紙としての性質上、それらの散文1つ1つの背後に本という名の、もっと巨大な散文のカタマリがそれぞれ存在しているのだということでして、ああなんという「印刷術の進歩と離しては考えられない」「今日の様な大散文時代」(小林秀雄「喋ることと書くこと」*2より)でありましょう。


昔、言葉が、石に刻まれたり、煉瓦に焼きつけられたり、筆で写されたりして、一種の器物の様に、丁寧な扱いを受けていた時分、文字というものは何んと言うか余程目方のかかった感じのものだったに相違ない。今、そういう事を、鉛の活字と輪転機の御蔭で、言葉は言わば全くその実質を失い、観念の符牒と化し、人々の空想のうちを、何んの抵抗も受けず飛び廻っている様な時代に生きている僕等が、考えてみるのは有益である。


小林秀雄「『ガリア戦記』」より*3


え?このパソコン・インターネット時代に、なにをいまさら活版印刷がどうのとか言ったり、新聞に散文の洪水を見たりしてるのかって?
まあ、こういう感性が僕の近代人であって現代人じゃない所以なんでしょうが、しかしこの文脈においてパソコンやインターネットは、結局のところ印刷術が起こしたことを直線的に進展させているのだと思うので、そんなに間違った態度じゃないかなあと。


パソコン時代といえば、手書きで草稿を書くっていうことも、あまりしなくなりましたよね。
下書きの文字の大きさが問題になるっていう現象は、今後起きないのかもしれません。

*1:「最相」はノンフィクション作家の最相葉月、「新井」はSF作家の新井素子、「加藤」は星新一の担当編集者であった加藤和代である。

*2:小林秀雄・著『Xへの手紙・私小説論』(新潮社<新潮文庫>/1962/asin:4101007012)315ページ

*3:同220ページ