セカイ市民のメランコリア

QR10年6月タイムテーブル


今年も6月に入りまして、きのう1日が電波の日なら、きょう2日は横浜開港記念日でありまして、ついでに僕の誕生日でもあります。
…べ、別にアンタに祝ってほしい訳じゃないんだからね!
一介の穀潰しのまま23歳突入です。今後とも何卒よろしくお願いいたします。


さて、月初めでありますので、画像は文化放送の6月タイムテーブルです。QRソングの新バージョンの話なんかが載っています。
なお、レコメン!でもネタにされている通り、U字工事QRソングは音程とリズムがあまりにダダイスティックで、聴くと気持ち悪くなるから注意が必要です。


そんな中、僕は相も変わらず、山川偉也・著『哲学者ディオゲネス』(講談社講談社学術文庫>/2008)の次が前島賢・著『セカイ系とは何か』(ソフトバンククリエイティブソフトバンク新書>/2010)だったりするような、三面怪人なみにダダイスティックな取り合わせの読書に勤しんでおります。


ディオゲネスは、以前このブログで取りあげたこともあります*1が、ポリス社会の価値や倫理を否定したキュニコス派の代表的哲学者です。
甕を住居にしたり、「ああ、お腹もまたこんなぐあいに、こすりさえすれば、ひもじくなくなるというのならいいのになあ」と言ったり*2と、奇行の目立つ人である一方、こんな格好いいことも言っています。

あなたはどこの国の人かと訊ねられると、「世界市民(コスモポリテース)だ」と彼は答えた。


ディオゲネス・ラエルティオス・著、加来彰俊・訳『ギリシア哲学者列伝(中)』岩波書店岩波文庫>/1989/asin:4003366328より)


そんなわけで、『哲学者ディオゲネスでは、この「世界市民」主義思想が探求されるのですが、「序章」で述べられるその動機は、なかなかにジャーナリスティックなものであります。

けれども、ディオゲネスの生き方と思想はきわめて新鮮かつ刺激的で、グローバリズムテロリズムに挟撃され未来が見えなくなってしまっているわれわれ現代人に、実に多くのことを教えてくれる。(中略)
この男が活躍したのは前四世紀後半、アテナイやスパルタやテバイなど、当時の有力で伝統的なギリシア都市国家が軒並みに凋落し、これに代わって北方のマケドニア王国が急速に台頭して地中海世界に覇権を打ち立て、東方のアジア世界に侵出し、一大世界帝国を形成しようとしていた時代であった。今日、わたしたちが、否応なしに、アメリカ帝国主義の美名としての「パークス・アメリカーナ」の傘下に生きているように、ディオゲネスは、「マケドニアの平和」の巨大な影の下で、これに対抗する「世界市民」としての新たな生き方を模索しつつ生きたのである。
(中略)
ディオゲネスが唱えた世界市民主義思想は、プラトンアリストテレスが展開した思想とはまったく異なる次元において展開された。それは特に、アリストテレス的人間観や世界観と根本的に対立し、その隘路を乗り越え新しい人間観を打ち立てようとするものであった。
そのことのもつ重要な意味は、いくら強調してもしすぎることはない。何故なら、今日なお世界をリードしている欧米の人間観や世界観は、確実にアリストテレス的人間観を引き継ぎ、その延長線上に構築されたものと考えられてよいからだ。今日におけるアメリカ主導型グローバリズムの理念上のマトリクスは、大局的に見て、アリストテレス的人間観であり世界観なのである。(後略)


『哲学者ディオゲネス』14〜16ページより)


古典古代を専門にしていると、歴史上に登場した全ての主題は古典期のうちにすでに語られており、以後になされた語りは、たかだか古典期の語りの変奏にすぎないと思いこむようになります(何を隠そう、僕もそうですからね)。
だから、2500年近く前の人の思想と「アメリカ主導型グローバリズム」とを直結させる語りが存在することは、いくらそれが一見トンデモない飛躍を抱えているものであろうと、別に怪しむに足りません。
しかし、この「序文」を読んだとき僕は、同じ古典古代を専門にするものとして、なんともいえない罪悪感を感じたのです。


なんというかこれ、「セカイ系」的な飛躍だよなあ。


セカイ系とは何か』においては、一般に流通している「セカイ系」定義として

物語の主人公(ぼく)と、彼が思いを寄せるヒロイン(きみ)の二者間系を中心とした小さな日常性(きみとぼく)の問題と、『世界の危機』『この世の終わり』といった抽象的かつ非日常的な大問題とが、一切の具体的(社会的)な文脈(中間項)を挟むことなく素朴に直結している作品群


セカイ系とは何か』27ページより)

などといったものが挙げられています。


もっとも著者はその上で、この定義を誤りだとして斥けてしまうのですが、僕は正しい「セカイ系」定義について云々したいわけではないし、そうできる能力もないので、著者の論を追うことはしません。
ただ思うことは、このような「セカイ系」定義が、それが必ずしも妥当なものではないかもしれないにも関わらず登場してきた背景には、“僕たちの世界認識は中間項を排除しがちだ”という論者自身の罪の意識があるのだろうということです。
例えば、まさに「セカイ系」のようなサブカルチャーへの批評が、まともな中間項を挟むことなく、社会評論に直結してしまうことへの罪悪感とか…。
そして、軽く2000年を超える中間項を挟んでいるにも関わらず、たまたま「ぼく」と「きみ」が生きているにすぎない現代から、全ての主題の発祥地であると信じられているところの古代へ、どうにかしてアクセスしようとする古典学者は、もっとも「セカイ系」的憂鬱にさらされる存在なのではないでしょうか。


正直なところ、最近の僕は、探せば探すほど「僕」と「今ここ」以外のどんな現実も発見できなくなっています。
それ以外のすべては文芸上の趣向にすぎないのかもしれない。
すると僕は、ディオゲネスのように白昼にランプに火をともして、ただし彼のように「ぼくは人間を探しているのだ」と言うのではなく、こう言わなければいけないのかもしれません。


「ぼくはセカイを探しているのだ」


哲学者ディオゲネス -世界市民の原像- (講談社学術文庫)

哲学者ディオゲネス -世界市民の原像- (講談社学術文庫)

セカイ系とは何か (ソフトバンク新書)

セカイ系とは何か (ソフトバンク新書)

*1:http://d.hatena.ne.jp/nise-jukensei/20070610

*2:ギリシア哲学者列伝(中)』147〜148ページ参照