映画版『ねこタクシー』きた!これで勝つる!

CTC10年6月タイムテーブル


東名阪ネット6ほか各社共同制作・映画版ねこタクシーが、いよいよ本日公開されました。さっそく見に行ってきましたよ。


封切日に映画館に駆けつけるだなんてたぶん人生初めてのことで、どんだけ楽しみにしてたんだよって感じですが、何を隠そうあのアシオ先生も「映画版ねこタクシーが楽しみ過ぎて風邪をひきそうです。」コアマガジン漫画ばんがいち』2010年7月号巻末コメント)と書かれていましたし…え?知らない?まあ、その場合はぜひ知らないまま暮らして下さい。


そんなことはともかくとして、肝心の映画の内容のうち、ドラマ版との違いについて書きます。といっても、重要な違いはネタバレになるから書きませんが。


猫をタクシーに乗せたことがきっかけとなり、お客さんとコミュニケーションを取れるようになるという主人公(タクシー運転手)の変化は、ドラマ版では多数のエピソ−ドによって語られている一方、映画版では非常に短い描写で済まされています。これは、1クール全12話の連続ドラマと、2時間弱1本勝負の映画の性格の違いからきているのでしょう。
ところが、その短い描写が、実に印象的でした。猫の性格についてお客さんに尋ねられた主人公は、“飼い主に似たんですかね?”などと応じ、それに対してさらに“運転手さんも同じ性格なんですか?”と聞かれると、はにかみつつ“そうです”と答えるのです。
なるほど確かに、間瀬垣勤(主人公の名前)は、猫を通じて自己開示することができたのだ、と説得させられる上手なシーンでした。


自己開示といえば、ドラマ版はとにかく独白が続くと以前書きました(http://d.hatena.ne.jp/nise-jukensei/20100110)が、映画版にはほとんど独白が登場しません。
ただ、冒頭と、ラスト直前に、主人公が自分を語る独白があります。そして、そこで語られる自意識が、冒頭とラスト直前で変化しており、つまるところ結局この2つの独白がそのまま映画の主題を表してもいるのですが、しかしさっきから几帳面に「ラスト直前」と書いている通り、ラストは独白ではありませんし、映画の主題からして独白ではいけないのです。
映画のラストは、「おはよう」という挨拶で締めくくられます。
自意識がいかに変化したところで、またそれだけをいかに独白してみたところで、何も変わりはしない、他人に「おはよう」と話しかけるのでなければ…。


このラストシーンを見て、僕は寺山修司が言った「おはようの思想化」ということを思い出しました。

みんなコミュニケーションにくたびれて、一人で安らかに眠ることを考えている。「おやすみの思想」が詩の主潮をなしはじめる。だが、それは何という空しいことだろう。
おやすみは、コミュニケーションの終りの挨拶である。ここからは何もはじまらない。少なくとも対話としての詩の可能性は望むべくもないのである。
だから、私は「おやすみ」ではなくて「おはよう」ということを考える。くたびれて「幻滅の風景を愛撫し」つづけてきた長い灰色の夜を終らせるのは、この「おはよう」の思想化ということである。


寺山修司・著『戦後詩』筑摩書房ちくま文庫>/1993/asin:4480027394/115ページより)


独白的にしか自己開示しない「おやすみの思想」ではなく、「おはようの思想」を。
それは、映画版『ねこタクシー』が独白で終わらずに「おはよう」の挨拶で終わった清々しさを思うまでもなく、頷ける主張のように思えます。
しかし、です。
最近、寺山修司詩集』(思潮社<現代詩文庫>/1972/asin:4783707510を読んでみたところ、「おはようの思想」と言ったその人が、本当に「おはよう」と挨拶するような詩を書いているか、どうもそれがあやしいのです。


詩や詩人から「おはよう」と話しかけられているというよりは、もっと距離をおいて読めてしまう詩が並んでいます。詩を成りたたせているレトリックがあまりにも見えすぎ、オブジェのように置かれているために、ちょうどポップコーンでもつまみながら映画を眺めるような感じで、詩的レトリックを眺めることができてしまうのです。

今日の世界は演劇によって再現できるか


今日の演劇は世界によって再現できるか


今日の再現は世界によって演劇できるか


「事物のフォークロア部分、寺山修司詩集』9ページより)


逆に考えると、いつから映画は、寺山修司の詩のように、ポップコーンでもつまみながら眺めるものになったのでしょう。

ただ「活動写真」という作品は、そんな時代があったと理解していただくほかない。テレビの普及する前は、映画館なるものが、ある種の魔力を持っていた。内部に入った者は画面につながる別世界の人間になれ、その酔いは帰宅したあとも残るのである。古きよき時代。ある年齢以上の作家が、映画についての思い出を本に書きたがるのは、そのためである。


これは、北杜夫・著『人工の星』(集英社集英社文庫>/1984/asin:4087507629星新一による「解説」より、映画にまつわる短編について述べた部分です(248〜249ページ)。
なるほど、やはりテレビの普及は大きかったでしょう。「活動」する映像が珍しいものではなくなったのですから。


そして僕は意地が悪いので、「古きよき時代」が過ぎ去った後も、ポップコーンでもつまみながら眺めることをよしとせず、映画に没入しようとする人の話を聞いて笑ってしまうのですが、そういった中からまず最初は特殊な例を。


英語教育関係の本をいろいろ書いており、そのどれもが松岡修造もビックリの暑苦しさを誇る、松本道弘という方がいらっしゃるのですが、詳しくは、と学会・編『トンデモ本の逆襲』(洋泉社/1996/asin:489691208X所収の植木不等式「トンデモ・ビジネス書の世界」を参照してもらうことにして、この人の著書で僕が唯一持っている『私はこうして英語を学んだ』(実用之日本社<実日新書>/1979/asin:B000J8INESから映画関係の部分を引きます。

外人が周囲にいないときは、映画館に入り、同じ映画を二回くらい見た。(中略)5%〜10%しか理解できない英語を求めて、映画館に入る。道場に入る前の気持で、実際うやうやしく頭を下げたこともある。大学一年、私が四級のころだ。そのころから私は道場はどこにでもあるという信念を持っていた。二年になり三級に昇級。20%ぐらい理解できるようになると、映画館は完全に道場で、他流試合に臨むような気持で、「お願いします」と声を出して入ったことがある。終って出るとき、スクリーンに向って、「ありがとうございました」と叫び、数人が振り返えって私の顔をのぞきこんだことすらあった。


『私はこうして英語を学んだ』30ページより)


ああ嫌だなあ、映画館で「ありがとうございました」と叫ぶ人…。
なお、おそらくこれは邦画最盛期くらいの出来事なので、実は「古きよき時代」が過ぎ去った後の話でもなんでもなさそうなのですが、そこはご愛敬ということで。
この本の最後の方になると著者は、「英語道」で中島敦名人伝』に出てくる「不射之射」の域に達したいとか言い出します。いやあ、本当にありがとうございました。
しかしながら、英語で「おはよう」と言いたいという著者の熱意には、心打たれるところがあります。


続いて、暗い青春時代に映画ばかり見ていたという大槻ケンヂのエッセイから。

中三の受験間際には『ロッキー2』を見に行った。その日、つまらないことで教師に「お前は人生でいつもビリだ」という強力な一言を言われて、ひどく落ち込んでいて何か力の湧きそうなものを見たかったのだ。月末で親からもらった小遣いも残りすくなく、後四百円くらいどうしてもたりない、それでも家中の十円玉をかき集めて渋谷に向かった。チケット売り場で十円玉をぶちまけ「百円、二百円」と数え出すと当たり前だが売り場のお姉さんは絶対0度の冷たい視線で僕をにらんだ。後ろにならんだ大学生風のカップルもまた露骨に嫌な顔だ。「この中坊が」サーファー風の大学生はわざと聞こえる小さな声で言った。連れの女がケタケタと笑った。
「ウルセィ、俺はお前らみたいに映画をセックスの前菜にするために来たんぢゃねえんだぞ!スクリーンは俺にとって宗教なんだぞ、映画館の闇の中でスクリーンに映し出される憎しみ、喜び、悲しみ、笑い、恋愛、戦争、人生、そいつを見る事は俺にとっての儀式なんだぞ!お前ら、スクリーンは見えても映画は見えちゃいないんだ!」


『のほほん雑記帳』角川書店<角川文庫>/1997/asin:4041847044/93ペ−ジより)


なんともルサンチマンに満ちた叫びですが、それがいい。
すでに失われた「おはよう」の挨拶を、映画に空しく求めようとする男の哀しみが溢れています。


さて、そんな大槻少年は、「見た映画の本数を一本でも増やすために」三本、四本立てのエロ映画館にたどりつきます。そして、エロ映画というジャンルを隠れ蓑にして、なにがしかの表現をやろうとする作品が存在することを知ります。
そんなわけで彼は、『行きそで行かないとこへ行こう』(新潮社<新潮文庫>/1997/asin:4101429219所収「ホモ映画館の中では……」において、「ホモ映画という、実に特殊な隠れ蓑を使って、表現したいことをフィルムに焼き付けようとする表現者がやはりいるのだろうかという疑問から」ホモ映画館に出かけていくのですが、そこに待っていたのは非情な現実でした。


ホモ映画という特殊な状況の中でも、エロを隠れ蓑に表現せんとするゲリラ戦士達は存在するのだ。
そう思うとうれしくなった。スクリーンに向かって、「そうだ、観客に見せつけてやれ!」と一声エールを送りたくなった。だがしかし……、なのだ。
だがしかし、ホモ映画館で、「映画」を見ている観客は、実は一人もいないのであった。(中略)
ホモ映画館は映画を見るところではないのだ。映画を上演する時に必ず起こる状況の、「闇」を利用して、パートナーを探す、いわゆる「ハッテンバ」というところなのだ、
映画は、相手探しのための「隠れ蓑」に過ぎないのだ。
別に映画なんか「映ってりゃいい」のだ。
「ううむ、しかし、それでは」
ボクは唸った。
「映画撮ってるもんの立場は!?」


行きそで行かないとこへ行こう』156〜159ページより)


観客が、ポップコーンでもつまみながら映画を眺める方面の最も極端な例であるにも関わらず、映画の側は必死で「おはよう」と呼びかけている、その痛ましさは想像を絶するものがあります。
しかし、映画どころか世界さえ、ポップコーンでもつまみながら人々が眺めている今日において、「おはよう」と呼びかけることは、ホモ映画館の中だけでなく、いつどこにおいても、ひどく絶望的な営為なのではないでしょうか。


独白から脱出することはできる。
自分が傷つけられることや、自分が傷つけてしまうことを、自分で覚悟することもできる。
しかし、「おはよう」に応えてくれる人がいるかどうかは、自分では決めることができません。


「おはよう」の声が空しく響き去ってしまったとき…。
そのとき人は、「おはよう」と挨拶するかわりに、「今日の再現は世界によって演劇できるか」とうそぶくことになるのでしょうか。


(画像は、映画版『ねこタクシー』が表紙および巻頭特集を飾ったチバテレビ6月タイムテーブル)