愛にまつわる2つの感想

だいぶ前にながはるさんに言われていた武者小路実篤・著『お目出たき人』(新潮社<新潮文庫>/2000)、やっと読みました。


お目出たき人 (新潮文庫)

お目出たき人 (新潮文庫)


主人公の「自分」が、「鶴」に恋をして、独りでもじもじきゅんきゅんやってるけど、実のところ「自分」と「鶴」は話したこともない関係で、だから殆ど何があるわけでもなく普通に失恋に終わるという、そんな恋愛小説になってない恋愛小説でした。


話したこともないのに、勝手に「鶴の性格を愛している心算でいる」ようなイタい主人公は、「今年二十六歳である」そうで、どう考えてもこんないい歳こいた男のする恋じゃないだろうに。


もっとも、

自分が鶴と夫婦になりたいと思った時に先ず心配したのは近処の人に冷笑されることだった。話の種にされることであった。歩く度に後ろ指をさゝれることであった。


(14ページ)

とあるところを読むと、恋愛結婚というものが破廉恥だった時代の話なのだから、「自分」の恋愛の幼さよりも、時代の恋愛の幼さを見るべきなのかとも思うのですが、そうだとしても「自分」の「空想家」っぷりは半端なものじゃありません。

もしかしたら自分が押つよく求婚しないために彼女は他の外面的には遥かに自分よりよき人の所へ嫁さないとも限らない。そうしてそれが為に自分の処へ来た程生の快楽と有難味を知らずに死ぬかも知れない。
こう思うと自分は鶴の為に戦う時が来たような気さえする。
しかし鶴とは一年近く逢わないのだ。自分は鶴と話したことはないのだ。自分はたゞ鶴の心と自分の心とはもう三四年前から他人ではないと云うことを信じている。しかし勝手に信じているのだ。二三年前からマーテルリンクを愛読するようになってからなおそう云うように思えるようになった。


(37、38ページ)


しかしながら、僕にとっての問題は、この「自分」の恋が単にそれ自体として価値とされているのではなく、自我の完成という理想の一部として求められているということです。

しかし自分はいくら女に餓えているからと云って、いくら鶴を恋しているからと云って、自分の仕事をすてゝまで鶴を得ようとは思わない。自分は鶴以上に自我を愛している。いくら淋しくとも自我を犠牲にしてまで鶴を得ようとは思わない。三度の飯を二度にへらしても、如何なる陋屋に住もうとも、鶴と夫婦になりたい。しかし自我を犠牲にしてまで鶴と一緒になろうとは思わない。
女に餓えて女の力を知り、女の力を知って、自我の力を自分は知ることが出来た。
(中略)
自分は自我を発展させる為にも鶴を要求するものである。


(20ページ)

自分には鶴と一緒になって始めて全人間*1たることが出来るように思えた。


(69ページ)

では、僕が「三度の飯を二度にへらしても、如何なる陋屋に住もうとも」研究者の道を目指したいと思ったのは、果たしてこの「自分」の恋よりも賢明なことであったでしょうか。


もっと一般的にいえば、夢とか目標とか、キャリア・プランとか就活の軸とか、そういったものに執着することは、この「自分」の恋とどれくらい異なっているんでしょうか。
だって、「自分」が「鶴」と話したことがないのと同様、僕たちは夢やら目標やらと一度も話したことがないんですから。
僕たちは、「自分」を笑うことができるでしょうか。


もちろん、実際に目標のために行動をして、その結果を見てまた考えて…という試行錯誤こそが、夢との対話なのであるという考えもありなのでしょうが、しかしそれでも、最初の最初に夢をもつことが「空想家」の仕事であるのに変わりはないでしょう。


自分の人生を愛するということは、かくも不確かな基礎の上に立っているものなのだなあ。


そんなこんなで、価値というものの存在が信じられなくなってくると、僕は、自分が高校のころによく言っていた、“つまらないものを愛せよ”というテーゼを思い出すのです。
つまらないこと、取るに足らないこと、欠伸を催させること…そういったものを何の利益もないのに愛することが、すなわち無償の愛、純粋の愛、至高の愛ではないか!
…と言って、僕はせっせとtvkを見ていたわけです。


まあ、いまの僕は年取ったせいで、つまらないものばかり愛せるほど尖っていられないのですが…。
それでも最近、このテーゼを思い出すことがありまして、それは安部真弘・著『侵略!イカ娘1』(秋田書店少年チャンピオン・コミックス>/2008)を読んだときなのでした。


侵略!イカ娘 1 (少年チャンピオン・コミックス)

侵略!イカ娘 1 (少年チャンピオン・コミックス)


今秋にアニメ化が決定している本作ですが、放送局は未定。
ただ、お話の舞台がどうも神奈川県らしく、最近はMXの攻勢でUHFアニメ東の雄”の地位を奪われてしまっているtvkも、地元だけにこれは絶対に落としてはならぬと、僕は勝手にイカ娘が次期10月改編の最終防衛ライン”だと思っています。
しかし僕が本作のtvkでの放送を願うのは、舞台が神奈川だからというだけではありません。
率直に言って、つまらないからです。


作者は、漫画賞に投稿した際の選評で「絵はプロレベル。話はまんがをバカにしているとしか思えません」と書かれたいわくつきの人だそうでして、ネット上では、“つまらない、イカ娘はかわいい”という形でさんざんネタにされており、あのアサッテ君」(東海林さだお・作、毎日新聞朝刊連載)を引き合いに出しちゃっている人もちらほらいます。
実際に自分で1巻を読んでみた感想も、確かにあんまり面白くないという意味で、つまらない…まあ、「アサッテ君」はあんまり面白くないというより、こんなんでどうやって面白がらせようとしているのか不明だという場合がままあるので、それよりはマシか、という感じです。


先に述べた事情により、自分の中で“つまらないものを愛せよ”というテーゼとtvkとが分かちがたく結びついているので、つまらないつまらないとバカにされつつ愛されている『侵略!イカ娘』がtvkに来てくれれば、それは結構萌える事態なのであります。


とはいえ、実際問題として、つまらなすぎるとこっちも疲れてしまうわけで…。
“つまらないものを愛せよ”と言いながら、僕のtvk愛も、結局のところsakusakuという王道から始まっているわけですしねえ。
やっぱり愛というのは、もっとスケベなところから始まらざるをえない気もしてまいります。
かといって、万人受けするほど面白くなってしまうと、それはそれで淋しい気もするというアンビバレンス。


まあ、そこのあたりの事情は、もう一度『お目出たき人』の「自分」に語ってもらうことにしましょうか。

父や川路氏の聞いた所によると鶴はすべての人から評判のいゝ人である。よすぎる程の女である。自分の目に映じた通りに鶴の近処の人も友達も先生も賞めているそうである。賞める許りである。しかし自分の鶴を恋し得たのは鶴の顔が美しかったからである。美しい許りではない、美しい点だけで鶴より優っている人は近処にもいる。しかし醜くかったら、又十人並以上でなかったら自分は鶴をかくまでには思いはしなかったろう。自分は鶴の顔の醜くゝなる事を恐れている。しかし今となって鶴が醜くゝなろうとも自分は鶴を捨てはしない。その時自分は鶴と結婚が出来たら喜ぶであろう。自分は始めは鶴の顔や姿を愛したろう。しかし今は鶴そのもの、目に見えないものを愛していると信じている。しかし鶴の美しいことを望む、切に美しくなることを望む、しかし他の男の注意を惹くことを恐れる。そうしてもう鶴は多くの男の注意を惹いたにちがいない。鶴の父は他からの縁談を断っていると云うではないか。


(『お目出たき人』94、95ページ)

*1:「ホールのにんげん」とのルビが振られている。