泣きゲーで泣かなきゃいけない僕たちの不幸について

『侵略!イカ娘』4巻106ページ


前回更新で、生徒会役員共がどうのとか書いた…というかむしろ、書かなかった翌日、自分のやっていた高校生徒会役員の仲間で集まって飲みました。
自分で言うのもなんですが、僕たちは同好会だった我が校のけいおんを部に昇格させるなどの華々しい活躍をした代でして、どうせなら麻雀部あたりも作っときゃ良かったのですが…いやいや、そんな文化部ありえません。


その飲み会の集合場所に向かう電車の中で、堀辰雄・著『風立ちぬ・美しい村』(新潮社<新潮文庫>/1951)収録の風立ちぬを読んでいました。
おかげで、酔っ払って話すことがすっかりその影響を受けてしまい、一方的に語ったのがきょうのタイトルである泣きゲーで泣かなきゃいけない僕たちの不幸について」


風立ちぬ」は、語り手の「私」と肺結核で死んでいく婚約者とが、山のサナトリウムで暮らす話ですが、

おれ達がこうしてお互に与え合っているこの幸福、――皆がもう行き止まりだと思っているところから始っているようなこの生の愉しさ、――そう云った誰も知らないような、おれ達だけのものを、おれはもっと確実なものに、もうすこし形をなしたものに置き換えたいのだ。


(123ページ)

なんて記述があるものの、しかしこの肺結核という「行き止まり」は当時すごくメジャーなものだったはずです。
だからこそ、「風立ちぬ」という作品は近代文学というメインカルチャーにカテゴライズされ、平成20年4月10日に111刷に達するようなことになるのでしょう。


一方でいま、当時の肺結核のような死の病に若くして罹るためには、よっぽどマニアックな難病奇病を狙うか、あるいは精神を病むくらいしか方法がないのだと思います。
つまるところ、病気そのものがサブカルチャー化してしまっているのが、現代の実情なのではないでしょうか。


それで、泣きゲーのヒロインはだいたい精神を病んでいるという思いこみが僕の中にあるので、「泣きゲーで泣かなきゃいけない僕たちの不幸について」とか口走っていた次第。
実際には、泣きゲーなんて一度もプレイしたことがないので、対象を知らないで批評しちゃってる単なるインチキなのですが、しかし、そういうフワフワした感じが僕たちの希薄な生の実感をよく反映していると思うので良しとしましょう…勝手に。


(画像はマニアックな難病奇病の一例でゲソ!)


風立ちぬ・美しい村 (新潮文庫)

風立ちぬ・美しい村 (新潮文庫)