『侵略!イカ娘』試論

0.

冬が慰安の季節なら、俺には冬がこわいのだ。


アルチュール・ランボー「別れ」より、小林秀雄*1


1.


さいわい僕は健全な青年なので、これまで触手なぞというジャンルとは無縁でいたのですが、しかし最近いろんな所で「ゲソ」だの「イカ」だの言いだしたことからも分かる通り、触手娘が主人公の『侵略!イカ娘』がいたくお気に入りになってしまったのであります。


と、ここで急いで付け加えておかなければならないのは、『侵略!イカ娘』自体は、パンチラすらないド健全漫画だということです。
ヒロインは常時ワンピースの下に水着を身につけているので、パンツじゃないから恥ずかしくないはずなのに、それでも頑固に見せない。


もっとも、そこがこの作品の売りでもあります。
そして、これから明らかにしたいのは、『侵略!イカ娘』の「健全」路線、いやむしろ、不健全なまでに物語の内部から性を追放しようというベクトルと、イカ擬人化・触手ヒロインという、物語の外部では当然に性的ニュアンスを帯びざるを得ない設定との間の緊張関係が、作品の重要な要素になっていることなのです。



2.


ヒロイン「イカ娘」は、白いワンピースを着た少女の姿をしています。
確かに触手は生えているのですが、髪の変形にすぎないごく爽やかなものです。
いわゆる「萌え」の系譜に属する絵柄とは言えるでしょうが、ネット上では「萌え」でなく「かわいい」と評価するのが定型になっています。
そして、行動も「微笑ましい」という語がよく似合うことばかりです。
つまり、「触手」という語から想像される粘着質の性を、一切省いて描かれているキャラクターなわけです。


とはいえ、これだけでは物語からの性の追放にはなりません。(純潔をどう侵犯していくかは、ポルノの主要なテーマの1つです。)
侵略のために海からやってきた少女は、それを抱きとめる地上の人間しだいで、典型的な「落ちもの」ラブコメのヒロインにもなったことでしょう。
ところが、彼岸からやってきたイカ娘を、此岸においてまず第一に受け入れるのは栄子という女性であり、こうしてヒロインはドラえもんオバQと同種の地位*2を獲得するのです。


この栄子は非常に男性的なキャラクターであり、読者(掲載誌のターゲットが男性*3)の代弁役を務めているように見えるのですが、そうでありながらあくまでも女性でなくてはならないのです。


ついでに言えば、栄子の幼なじみとして、悟郎という男性キャラクターが配置されています。
最近では幼なじみという記号が、奇妙にも男女関係をより意識させるものとして機能しているのですが、本作の栄子と悟郎は現実的な幼なじみ関係にあり、つまるところ決して恋仲になり得ません。
ここでもラブコメの関節は、しっかりと外されているわけです。


3.


当初は殆ど栄子らの経営する海の家のみを舞台としていた本作も、イカ娘が栄子の自宅・相沢家に居候するようになる第2巻第27話からは急速にホームコメディ化します。
相沢家は栄子とその姉・千鶴、弟・たけるの3人家族で、彼らの両親は作中に特に説明もなく不在です。*4
そして、これはたいへん重要なことです。


幼なじみ・悟郎や、中性名詞das Kindで名指されるべき弟・たけるを除くと、主要な男性キャラはもう殆どいないということになりますが、しかし登場人物が女性ばかりに偏っているというのは、実はそんなに偏ったことではないでしょう。何を隠そう、僕たちの生活の場として、性や性差が排除されたホモソーシャル的な共同体は、ごく一般的に実在するのですから。
しかし、家庭内において普段は不可視化されている婚姻という男女関係すら排除するばかりか、あまつさえ両親を(ともに)登場させないことによって親子関係をも揉み消してしまうとなると、さすがに奇異な印象を持たざるを得ません。*5


この兄弟姉妹関係のみで構成された、すなわち極度に性が追放された家庭におけるホームコメディを眺めていると、イカ娘の触手という「外部」を忘れてしまいそうです。
しかし、「外部」との緊張関係を思い出させるキャラクターが、相沢家の外部には存在します。


4.


その1人が、シンディーです。彼女は「米国地球外生命体対策調査研究所」の一員で、イカ娘を宇宙人だと思いこみ、研究対象にしようとして度々ちょっかいを出してきます。
そして、決定的なのは第2巻第38話です。ここでシンディーは、「私なんて(イカ娘に)触手責めにあった上に謎の液体までかけられたのよ」(括弧内は引用者による挿入)と、作中ではじめて物語の「外部」を示唆します。
しかし、かく言うシンディーは基本的にイカ娘を宇宙人=研究対象と見なしているだけであり、性的な意図を持っているわけではありません。逆に性的な意図を持たないがために、この発言を許されたと見るべきでしょう。


もう1人は早苗です。彼女は、第3巻第49話において「イカちゃんは大事なオカ……」と発言して、栄子に制止されているのですが、ここで制止されなければならなかったという事実から分かる通り、シンディーよりも濃厚に「外部」と密通している、いやむしろ「外部」そのもののようなキャラクターです。
早苗の初登場は第1巻第9話ですが、第1巻第11話では早くもイカ娘に「恋」をし、第1巻第19話では皆で祭りに来たイカ娘を、「人気のない所に」連れ去ろうとします。
この時も、栄子によって「何をするつもりだ!!」とツッコミを入れられながら制止されるのですが、何をするつもりもなにも、夏祭りで人気のない所に行ってすることなんて、他作品におけるパラレルを指摘するまでもなく、誰の目にも明らかですね。


そう、早苗こそが、物語の外部=性を物語の内部に持ち込もうとする侵略者なのです。
そして、早苗の「侵略」を阻止する、読者の代弁者・栄子の雄姿に、僕たちは拍手を送らずにいられません。
露呈した「外部」と「内部」との間の緊張関係は、常に「外部」が「内部」から追放されることによって解決されます。
栄子による早苗の「侵略」の阻止=「外部」の追放劇は、第5巻第88話でも見ることができますが、もっとも面白い例は第4巻第69話だと思いますので、次にこれを詳細に検討してみることにしましょう。


5.


「おままごとしなイカ?」と題された第69話は、公園で散歩中のイカ娘が、幼女・りさから「私の旦那さんになって!」と声をかけられるところから始まります。
それは、おままごとへの誘いでした。後にやって来た栄子も加わり、イカ娘が夫役、栄子が妻役、りさが娘役でおままごとが続きます。
ところが、そこに早苗までやって来ます。早苗はりさから「不倫相手」=「パパにまとわりつく悪い虫役」を与えられ、迫真の演技(?)で「イカ夫さん」=イカ娘を連れ去ろうとします。
そこで、娘役のりさが妻役の栄子に、「このまま家族がバラバラになっちゃうなんて嫌だよ……パパを助けて」と頼み、それを聞いて笑顔で頷いた栄子が、早苗を突き飛ばして、いつもの「追放」が達成されます。


「おままごと」という形ではあれ、初めて導入された家庭内の男女関係は、その(生まれつきのものである/と信じられている親子関係・兄弟姉妹関係に比しての)不安定さを発揮しました。
しかし結局は安定の中に回収され、「ずっと一緒だよパパ!」というりさの宣言に示される、日常の勝利に終わります。
そして、この勝利は僕たち読者にとっての勝利でもあるのです。


6.


以上、『侵略!イカ娘』における「内部」と「外部」の緊張関係と、「外部」=性の追放を論じてきましたが、この視点から見た本作の季節設定には、非常に示唆的なものがあります。
他の季節での特別編がいくつかあるものの、本編の季節は「ずーっと真夏」なのです。(サザエさん時空ってレベルじゃねーぞ!)


しかし、家族からも性を追放してしまった本作にとって、特別編で登場している*6とはいえ、ほんらい秋や冬は禁忌なのではないでしょうか。
というのも、もはや世代の再生産という機能が、この物語からは剥奪されてしまっているからです。
本作にとっての秋・冬は、これから来るであろうけれども目を背けておきたい、僕たち自身の社会の秋・冬の姿を、映しだしてしまうと言えます。
そんなわけで、僕は本作に「非婚世代の常夏コメディ」と、やや強引な私的キャッチコピーをつけていたりするのです。


7.


最後に、僕は単行本既刊分(1〜6巻)しか読んでいないことをお断りしておきます。その後の雑誌掲載分には目を通していません。


侵略!イカ娘 1 (少年チャンピオン・コミックス)

侵略!イカ娘 1 (少年チャンピオン・コミックス)

侵略!イカ娘 2 (少年チャンピオン・コミックス)

侵略!イカ娘 2 (少年チャンピオン・コミックス)

侵略!イカ娘 3 (少年チャンピオン・コミックス)

侵略!イカ娘 3 (少年チャンピオン・コミックス)

侵略!イカ娘 4 (少年チャンピオン・コミックス)

侵略!イカ娘 4 (少年チャンピオン・コミックス)

侵略!イカ娘 5 (少年チャンピオン・コミックス)

侵略!イカ娘 5 (少年チャンピオン・コミックス)

侵略!イカ娘 6 (少年チャンピオンコミックス)

侵略!イカ娘 6 (少年チャンピオンコミックス)


いや、たぶん当然読んでおくべき周辺分野の諸作品を読んでいない方が致命的なんでしょうが、ただまあそれを言い出すと、そもそもわざわざこの作品を取り出して論じること自体がネタなのでね…。

*1:ランボオ・作、小林秀雄・訳『地獄の季節』(岩波書店岩波文庫>/1938/asin:4003255216)59ページ

*2:なお、作中にもイカ娘をドラえもんになぞらえる表現が登場する。(第5巻第94話148ページ)

*3:掲載誌『週刊少年チャンピオン』(秋田書店)の読者層が大きく男性に偏っていることは、作中にも言及がある。(第6巻4ページ)

*4:第5巻第94話に「今は使ってない」「両親の寝室」が登場するほか、第6巻第108話109ページにも「親」が短く言及されている。また第5巻第79話26ページの回想シーンに両親らしき人物の姿が描かれている。把握している限り、単行本既刊分で両親に関わる表現はこれが全て。

*5:不勉強な僕は、家庭における親の不在を『侵略!イカ娘』に発見した時点で満足してしまったのですが、それだけでなく、いわゆる「日常系」の設定では、少なくとも片親がいなかったりすることが多いみたいです。ただ、僕にはそのへんのことを一般的に論じる能力がありませんので、あしからず。

*6:秋が舞台の特別編は第5巻3ページから、冬が舞台の特別編は第3巻155ページから、それぞれ掲載されている。