生月島・江の島

(前略)吉本の合理主義とこの農民たちの不条理な合理主義と角力をとらせたらどちらが優勢であるか、私ごとき工作者でも骨身にしみて知っているのだ。おそらくそれは代数と微積分の勝負とでもいったらよいものである。庶民意識の中間性を攻撃するというのなら大いに賛成だし、壺井や岡本を槍玉にしても悪くはないが、どうも槍先が知識人の方へすべったのは解しかねる。なぜ庶民そのものの内部を突かないのか。それによって「戦争」からエネルギーを汲まないのか。戦時民衆の「軍国主義」に戦後民主主義の母胎を発見することで、日本の抵抗運動の不連続性をうち破らないのか。昨秋、鶴見俊輔にその趣旨を話したら、危い橋わたりだな、と言った。危険のない変革など私は考えたこともないので、微積分の講義はそれくらいでやめてしまったが(後略)


谷川雁「現代詩の歴史的自覚」(岩崎稔、米谷匡史・編『谷川雁セレクションI』日本経済評論社/2009/asin:4818820008/100〜113ページ)より。「吉本」は吉本隆明、「壺井」は壺井繁治、「岡本」は岡本潤のこと。


保坂展人さんが、何を思ったかいきなりかくれキリシタンルポ」なんてのを週刊朝日で先週・今週の2回に分けて書いてましたので、買って読みました。
弾圧を受けていたということに「サヨク的」共感を寄せるというだけなら分かりやすいとしても、かくれキリシタンの信仰と儀式を守ってきたのは地縁・血縁に基づいた非常に保守的な共同体なわけです。主な取材先は生月島という島。その上、禁教時代に監視の目を逃れなければならなかったためか、信仰組織は集落ごとに閉じていて、自己完結しているといいます。こういうのに平気で分け入っていくところ、実に“らしい”なあと。
それで冒頭に引用した「危い橋わたりだな」というのを思い出したというわけ。記事には、谷川雁の兄である民俗学者谷川健一さんの言葉も大きく掲載されています。


以前に島の話をしたとき(http://d.hatena.ne.jp/nise-jukensei/20100225)も谷川雁の引用から始まって、突然漫画の話に変わるという構成をとって、正直何が言いたいんだかよくわからん記事になったのですが、今回もわざわざ同じ流れにします。


大学近くのコンビニにあるのが目に留まってから、なぜかずっと気になっていた岡井ハルコ・著『江の島ワイキキ食堂』第2巻(少年画報社<ねこぱんちコミックス>/2011)、院試2次が終わった日に意味なく買ってしまいました。


江の島ワイキキ食堂 2 (ねこぱんちコミックス)

江の島ワイキキ食堂 2 (ねこぱんちコミックス)


それにしても、江の島!
僕はあそこが大好きなんです。
古来より信仰の場であり、今では立派な観光地。
テーマパークみたいなんですよね。まず橋を渡って島に上陸し、次にお土産屋やら何やらで賑やかな表参道。別世界への入口に、ワクワクしちゃいます。
そして、「エスカー」…って、単なるエスカレーターじゃねえか!でも、この単なるエスカレーターが、不思議とエンタテインメントです。きっと昔、町のデパートあたりに初めてエスカレーターが出来たときは、みんなそれに乗るだけで特別な一日になったんだろうな…みたいなことを思わせてくれます。


ところが、こんな江の島にもちゃんと住所があるんです。「江の島一丁目」とか「江の島二丁目」とか。
そして住んでる人も普通にいます。というか、結構一杯います。
テーマパークの中に一般の民家が紛れ込んでいるようなこの違和感、僕にとってはたまらなく魅力的なんですね。
島という最も閉鎖的な生活空間と、観光地という最も開放的な刹那性とのコントラストと言ったら…!


『江の島ワイキキ食堂』の主人公は、人間の言葉が喋れるけれど、それを隠して生活している猫の「オードリー」なのですが、そうそう江の島ならこんな猫がいてもいいんじゃないかなあと思っちゃいます。
「番外編」を除くと、お話は7つ載っているのですが、うち4つはゲストキャラ(人間)とオードリーの交流が主で、オードリーの住んでいる「ワイキキ食堂」のシェフ「頼ちゃん」の周囲がメインになる話は2つだけです。(残りの1つは猫どうしの話。)このへん、観光地としての江の島っぽい。
もっとも、ゲストキャラが事件に遭遇している一方で、その間にも続いている頼ちゃんの生活が、最初の方の話を読んでおけばもっとリアリティをもって立ち上がってくるのかもしれないので、第1巻を見ないことには何とも言えないところではあります。


…結局またよくわからん記事になってしまいましたが、きょうはここまでということで。