『地下鉄のザジ』のエピグラフについて

きょうから通常更新に戻ります。本当は先週の土曜日に書こうと思っていた内容から。


レーモン・クノー・著、生田耕作・訳『地下鉄のザジ』(中央公論新社<中公文庫>/1974)を読みました。


地下鉄のザジ (中公文庫)

地下鉄のザジ (中公文庫)


冒頭にアリストテレスからの引用句が掲げられています。
古典ギリシア語の表記をそのまま入力することはできないのでラテンアルファベットに音写しますが、"ho plasas ephanisen"(ホ・プラサース・エーファニセン)というものです。
直訳すれば「作った者が壊した」とでもいう意味になります。
ただ、印刷されているギリシア語表記が間違っているんですよね。
"ephanisen"の語頭の文字「エータ」(η)の上に鋭アクセント記号(´)がついていますが、これは無気音を表す気息記号(’の形の記号)の誤りですので、ご注意を。


さて、調べてみたところ、これはアリストテレスからの直接の引用ではなくて、ストラボン第13巻1章36節でアリストテレスの言葉として紹介されているもののようです。
Loeb版*1によれば、もともとのテクストは"ho de plasas poietes ephanisen"(ホ・デ・プラサース・ポイエーテース・エーファニセン)で、訳せば「一方で作った詩人が壊した」という感じ。
これだけでは、意味がわかりませんね(笑)


というわけで、このフレーズが出てくる文脈をチェック。
そもそもストラボンが書いたのは世界地理に関する本です。第13巻はホメロスイリアス』の舞台であるトロイア周辺についてなので、ホメロストロイア周辺の地理についてどう書いているかがさんざん問題にされています。さっきの「詩人」(poietes)というのは、ホメロスのことなのです。
で、1章36節の問題の部分は、トロイアに遠征してきたギリシア軍の軍船置場に防壁があったか否かについて議論しているところなのですが、ここまで理解してもらえましたら、あとは邦訳をそのまま引用すれば十分でしょう。

詩人は、この防壁が最近できた、と話している。あるいは、実際にはできなかったのに、詩人がこれを創作した上で破壊されたことにしたのだ、とはアリストテレスの説である。


(飯尾都人・訳『ストラボン ギリシア・ローマ世界地誌』龍溪書舎/1994/asin:4844783777/第II巻220ページより)


「…のに、詩人がこれを創作した上で破壊されたことにした」というのが、直訳の「一方で作った詩人が壊した」にあたる箇所なわけです。
さっきのLoeb版から、Horace Leonard Jonesによる英訳も引用しておきましょうか。

for Homer says that the wall had only recently been built (or else it was not built at all, but fabricated and then abolished by the poet, as Aristotle says)


The Geography of Strabo VI, London 1929, p71より)


…というわけで、"ho plasas ephanisen"「作ったものが壊した」は、「作って壊した、という話を作った」というふうな具合に意味をとっておくべきなのでしょう。英訳にあるfabicateを辞書で引くと、「でっちあげる」なんて訳語がついていたりします。
ここまで調べて、このエピグラフが『地下鉄のザジ』という作品の性格、語り口を表しているということなんだろうなあ、となんとなく納得できたような気がしました。


ただ、なぜストラボンの地理の本なんぞから引いてきたのかとか、いや本当はアリストテレスの現存する作品中に対応する箇所があるんじゃないかとか、いろいろ疑問点、調べたりないことは残っています。
まあこれは、機会があればということで。


Geography, Volume VI: Books 13-14 (Loeb Classical Library)

Geography, Volume VI: Books 13-14 (Loeb Classical Library)

*1:ギリシア・ラテン古典作品の希英/羅英対訳シリーズ。ほんとに研究するときはもっと専門的な校訂本を使うのですが、今回はこういうブログの更新なので許してくださいな。