『かもめ』、あるいは喜劇と悲劇の区別について

最近読んだ本ついて、微妙に連関を持たせつつ、1、2冊ずつ書いていこうかと。
第1回目は、チェーホフ・作/浦雅春・訳『かもめ』(岩波書店岩波文庫>/2010)です。


かもめ (岩波文庫)

かもめ (岩波文庫)


『かもめ』は戯曲、つまり演劇作品でありまして、演劇と言えば古代ギリシアの昔から、喜劇と悲劇という二大ジャンルが存在してきたわけですが、その喜劇と悲劇の区別について、問題の解決で終わるのが前者で、破綻で終わるのが後者だという二分法を聞いたことがあります。
なるほどそれならば、

ひとの世の旅路のなかば、ふと気がつくと、私はますぐな道を見失い、暗い森に迷いこんでいた。


寿岳文章・訳/asin:4087610012


で最初の「地獄篇」が始まるダンテ神曲の原題がLa Divina Commedia神聖喜劇なのも、最後は「天国篇」という解決に行き着くからだと説明がつくわけです*1


では、副題が「四幕の喜劇」であるこの『かもめ』はどうかというと、困ったことに本作には解決らしい解決が用意されていません。ヒロインは男に捨てられてどさ回りの女優になり、ヒーローは自殺するというのが話の結末です。
なぜこんな『かもめ』をチェーホフは「喜劇」と呼んだのか。そのことが、巻末の訳者による解説「『かもめ』の飛翔」で論じられています。

望遠鏡をのぞき込むようにひとりの人間の運命に瞳をこらすならば、そこには苦悩にゆがむ相貌が浮かび上がってくるかもしれないが、その望遠鏡を逆さにながめるならば、個人の表情は消え、遠巻きにしかその動作が見えない。クロースアップの表情を奪われた人間の動作はサイレント映画でも見るように、機械的でぎくしゃくとしたものとなるだろう。対象に密着した視点は「悲劇」を生み出すが、そこに無限の距離を介在させれば、それは「喜劇的な」様相を帯びてくる。誰が読んでも「悲劇」としか思えないような作品を書きながら、チェーホフはそれを「喜劇」だと強弁して演出家や研究者を悩ませてきた。『かもめ』も「四幕の喜劇*2」と題されている。その謎を解く鍵はやはりこの距離にあるだろう。距離を介在させると、すべては「喜劇」へと変貌する。「喜劇」とはおもしろおかしい状況や運命をさすのではなく、無限の距離からながめられた人々の営みそのもの、ダンテの「ラ・ディヴィナ・コンメディア」つまり「神曲」に通じるものなのだろう。


(180〜181ページ)


登場人物から距離をとること、それによって彼らを卑小で地上的な“キャラ”の枠に押し込めること、それが喜劇の(1つの)特徴なのでしょう。
まあ結局なんとでも言えるし、だから最初に挙げた喜劇と悲劇の区別も、それはそれで正しいのだと思うのですが。


次回、たぶん喜劇的なものの見方の具体例、というか僕の喜劇的なタワゴト。

*1:神曲』は劇ではなくて叙事詩ですが。なお、叙事詩と悲劇・喜劇の関係についてはアリストテレス先生が『詩学』(asin:4003360494)で自説を語ってたりします。

*2:原文では「喜劇」に傍点が付されています。