コミュ力どろぼう

これでも僕は文献学の徒の端くれなので、言葉について何か語るんなら根拠となる用例を1つでも2つでも持ってこいや!と思って暮らしているわけですが、いかんせん専門が外国語、しかも古典語という非日常的なものであるため、普段使っている日本語に対しては結構脇が甘いところがあります。


きのう『くにまるジャパン』(文化放送を聴いていたら、1982年に起こった航空事故で「逆噴射」という言葉が流行語になったという話をしていました。僕にとって「逆噴射」といえば例えばツインターボであり、そして彼の失速が「逆噴射」と形容されるのは単にそれに似ているがゆえの自然発生的な比喩によるのだと思っていました。
しかし、調べてみるとどうもそうではないようなのです。「逆噴射」による航空事故が起こったのは82年2月はじめ、その直後の3月末に競馬界では「サルノキングの逆噴射」等と呼ばれる事件が起こりました。サルノキングという競走馬のレース運びが不可解で八百長が疑われた事件なのですが、ちょうどそのとき流行語であった「逆噴射」の名がつけられたのです。この事件によって競馬に「逆噴射」という言葉が導入されたと考えてよいでしょう。したがってツインターボの失速を形容する「逆噴射」は82年の航空事故という由来を持っており、自然発生的な比喩ではないのだと言えそうです。


同様の思い込みが最近になって正された例は、恥ずかしながら他にもあります。和製英語であるという「ディスコミュニケーション」についての思い込みがそれです。
僕にとって「ディスコミュニケーション」の真っ先に思い出される用例は、2007年7月から1クール放送されたアニメぽてまよのOPテーマ『片道きゃっちぼーる』(MOSAIC.WAVの歌詞にある「世界中で流行るディスコミュニケーション」です(まあ実は『ぽてまよ』のアニメ自体は見てないんですけどね)。
とにかく「ディスコミュニケーション」は世界中で流行っちゃってるわけですが、それは世界の中でコミュニケーションに背負わされているものが近年とても大きくなっているからに違いないわけでして、いや実に「ゼロ年代」的な言葉だなあと思っていました。日常系アニメという道具立てもまた「ゼロ年代」的ですし。
ところが、今年4月からのUHFアニメを調べていて、思いがけず「ディスコミュニケーション」のもっと早い用例をみつけてしまいました。謎の彼女X』(TOKYO MX、土曜25時30分〜26時、ほか)の原作者・植芝利一さんの代表作の題名がずばりディスコミュニケーション』(講談社であり、その連載は1992年から2000年にかけて行われていたのです。これまるっきり90年代じゃん!


…せっかく以上のことを知ったにも関わらず、「ディスコミュニケーション」が「ゼロ年代」以降的で、まさしく今日的な言葉だという感覚を僕は捨てていません。しょせんは文献学者を騙った山師にすぎないからでありましょうが、それはともかく、コミュニケーションが世界を覆い尽くしていること、だからその失敗=「ディスコミュニケーション」に対して過敏にならざるを得ないこと、それゆえ失敗を防ぐ「コミュ力」への物神崇拝とでもいうべき状況がうまれていること、これらは僕にとって現代社会の自明な特徴なのです。
年明け以降に第1巻が発売され、予想を上回る売れ行きで品切れ状態になり、いわゆる「単行本難民」を発生させた2作の漫画作品も、濃厚に「ディスコミュニケーション」を意識させて僕の信念を強化することになりました。あ、やっぱりスクエニ秋田書店の話をするから、そこらへんの(わざとやってる)偏りは勘弁して下さいね。


谷川ニコ私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』(スクウェア・エニックス<ガンガンコミックスONLINE>)は、「モテない」女子高生の主人公がやることなすこと空回ってしまうという、ある種の青年期をくぐり抜けた(あるいは、くぐり抜けつつある)読者にとって実にイタいお話です。第1巻は2012年1月発売でしたが、なんでも海外から買いを浴びたとかいう事情もあり、直後に一時品切れ状態になっていました。


さて、「友達が少ない」とか言ってる割に友達いるじゃん!のようなパターンと異なり、この主人公は本当にモテません。それどころか家族以外とほとんどコミュニケーションが取れておらず、モテるモテない以前の問題です。それでもモテないことが特権的に焦点化されるあたり、なんだか「リア充」という言葉が単に恋人がいるという意味に矮小化される傾向とパラレルな気がします。
いま「コミュニケーションが取れておらず」と書きましたが、この作品の重要なところはここです。彼女は彼女の何か本質的なものによって世界から疎外されているわけではないし、彼女がうまくコミュニケーションを取ることができない相手は彼女に対して悪意をもっていません。それどころか無償の善意の対象になってさえいます(「喪5:モテないし宿る」)。問題はひたすら彼女が彼らとうまくコミュニケーションが取れないこと=「ディスコミュニケーション」にあり、そしておそらく彼女の「コミュ力」の不足にあるように描かれています。
彼女自身もそう考えているフシがあり、放課後に高校の担任教師から話しかけられてとっさに「さよなら」も言えなかったときには、「誰かと会話して中学時代の私の会話感を取り戻さなくては…」(?)ということで、弟と会話(「トーク」というフリガナが付けられている)のリハビリを行いだす(!)のです(「喪2:モテないし人見知り」)。嫌々ながらもつきあってあげる弟が優しすぎて泣けてきます。



阿部共実空が灰色だから』(秋田書店少年チャンピオンコミックス>)は、週刊少年チャンピオン連載の「人々のうまくいかない日常を描くオムニバス・ショート」ですが、この「うまくいかな」さからは濃厚に「ディスコミュニケーション」の香りが漂っています。第1巻は2012年3月発売で、こういう人を選ぶ作品は秋田書店さんがあまり刷らないだろうから確実に単行本難民が出るなと踏んでいたのですが、見事に予想が当たってしまいました。


冒頭の第1話からして「極度の恥ずかしがり」の主人公が子供とのコミュニケーションから逃れてサボテンに話しかけるところから始まってしまう第1巻でありますが、巻末の単行本書き下ろしの直前、すなわち雑誌連載収録分の最後である第12話が件の「ガガスバンダス」なのは(意図したのかは知りませんが)素晴らしい構成です。
ガガスバンダス」の内容について具体的に説明するのは野暮なので、ここではごくごく抽象的にまとめますが、無意味で出口のない「ディスコミュニケーション」の円環の中でアイデンティティが揺らぎ続ける12ページとでも言っておけば、通り一遍の紹介にはなるでしょう。
登場キャラクター3人の会話の中で1人がずっと疎外され続けるのですが、その疎外される1人のアイデンティティも揺らぐ仕掛けになっていますから、そもそも疎外される主体が存在しているのかどうかも疑わしく、そこにあるのは「ディスコミュニケーション」、関係性の失敗ばかりです。


空が灰色だから 1 (少年チャンピオン・コミックス)

空が灰色だから 1 (少年チャンピオン・コミックス)


以上、ポップカルチャーに表現された「ディスコミュニケーション」の具体例を2つ取り上げてみたわけですが、やはりこの問題は恋愛と性からの疎外、友人や知人関係からの疎外に直結するし、さらに前者は結婚と家族形成からの疎外、後者は社会関係資本からの疎外につながっていくだろうことが当然予想されるわけで、だから「ディスコミュニケーション」とそれを引き起こす己の「コミュ力」不足を嘆く声には、ポップさの影にも悲痛な響きがこもっています。
そして「コミュ力」の多寡が決定的に「勝ち組」と「負け組」を切り分けると信じられているのが就職活動=「シューカツ」です。だから「シューカツ」をめぐる言説には「ディスコミュニケーション」と「コミュ力」の不平等を呪う怨嗟が満ちているのではないかと想像できます。
ところが、苅谷剛彦本田由紀・編『大卒就職の社会学』(東京大学出版会/2010)という本を読んでいて、僕は意外な記述をみつけてしまいました。

ある調査の質問紙にコミュニケーション能力を自己評価する質問を組み込んだこともある.しかし大半の者が「高い」と回答してほとんど分散がなく使い物にならなかった.


(平沢和司「2章 大卒就職機会に関する諸仮説の検討」82ページより)

なんと「コミュ力」については不足を嘆くどころか、高さを誇っている者が大半だというのです!
もっとも、標本に偏りがあるのではないかという疑いはあります。たぶん著者が教員として担当する講義に出席した大学生が対象だろうと思うのですが、その場合はある世代の大学生というだけでも相当な偏りがありますし、まして社会学専攻だとするなら、しばしば人文社会系における「リア充」の巣窟となっている分野の学生なわけですから。
しかしそれでも、誰もが「コミュ力」の劣等感に苦しんでいるはずという僕の素朴なイメージを砕け散らせるには十分な調査結果なのでありました。


大卒就職の社会学―データからみる変化

大卒就職の社会学―データからみる変化


でも、この調査で明らかになった自己イメージはどこまで現実に即しているんですかねえ。
だって「コミュ力」自慢が集まって動かしているはずの社会なのに、実際にはなぜか「世界中で流行るディスコミュニケーション」状態になっているとは思いませんか。ミクロには些細な「ディスコミュニケーション」から来るいがみ合いが絶えないし、マクロには民族・宗教や政治的立場、利害関係を異にする人々どうしの合意形成なんて望むべくもなく、殺し合いにならなかったら儲けものといった体たらくです。
僕にはどうにも「大半の者」の「コミュ力」が「高い」なんて信じられません。
こうなると、あるいは若者の伸び盛りの「コミュ力」が「ディスコミュニケーション」へと「逆噴射」してしまう原因がどこかにあるとも考えられます。ひょっとして世の中には「コミュ力どろぼう」なんてものがいるのかもしれません。


「いいえ、あの方は何も盗らなかったわ。私のために戦って下さったんです」
「いや、奴はとんでもないものを盗んでいきました。あなたのコミュ力です」


待てーい!ルパーン!!