オカルト・ばくおん・いもうと

丸山真男・著『日本の思想』(岩波書店岩波新書>/1961)を読んでいましたら、「ディス・コミュニケーション」という語の用例をここでも発見してしまいました(http://d.hatena.ne.jp/nise-jukensei/20120425参照)。

マス・コミュニケーションによる思想の画一化ということがよくいわれますけれども、日本のコミュニケーションの構造というものはちょっと複雑で、マス・コミュニケーションのまっただ中におけるディス・コミュニケーション―コミュニケーションの無さですね、こういう逆説的な構造を持っているように思われます。


(145ページ)

しかし現代において「ディス・コミュニケーション」を論じる際には、ケータイやネットなどによるパーソナルなコミュニケーションのまっただ中におけるそれが対象とならざるを得ないでしょうな。


日本の思想 (岩波新書)

日本の思想 (岩波新書)


さて、きょうの本題。
いつものスクエニ・秋田・少年画報という3社から出た漫画からそれぞれ1冊ずつを選んで、それらと関係あったりなかったりすることを書こうと思います。

  • そんなオカルトありえ…ってそもそもそれはオカルトなのか?

「そんなオカルトありえません」といえば、むやみにリンシャンやらハイテイやらが飛び交う“超能力麻雀”に対して咲-saki-シリーズのキャラクター・原村和が入れるツッコミですが、先日発売された小林立・原作、五十嵐あぐり・作画『咲-saki-阿知賀編 episode of side-A』2巻(スクウェア・エニックス<ガンガンコミックス>/2012)を読みますと、果たしてこれを本当に「オカルト」occult(語源はラテン語occultus「隠された」)と呼んで良いのか考えなければならなくなります。



というのも、この巻では超能力(?)のために生じる「ツモのかたより」を統計的に調べるという描写があるのです。

江口 今朝 簡単なプログラム作ったってアレか
船久保 被験者松実宥の牌譜から彼女の手元にきた牌の分布を出してみたんです


(117ページ)

「プログラム」、「被験者」、「分布」といった言葉は、この研究の科学性を強調していると読んでいいでしょう。
そして127ページで、問題の分布を描いた棒グラフが、iPad的な何かに大きく映し出されているのも印象的です。もう「ツモのかたより」は全然「隠された」(occultusな)ものじゃなくなってしまっています。
…それなら、ここで行われていることって結局、「超心理学」の実験なんじゃないだろうか。


超能力などの超常現象を対象とする科学の分野として超心理学があり、主に実験室におけるよく統制された実験とそのデータへの統計的な処理によって、超能力の存在を示唆する研究成果が得られている。そしてそれは、少なくとも他のオカルト的疑似科学と同じようには簡単に切り捨てられない。
僕も以上のようなことを昔から一通り知ってはいましたが、最近ジョン・ベロフ・著、笠原敏雄・訳『超心理学史』(日本教文社/1998)と、ステイシー・ホーン・著、ナカイサヤカ・訳、石川幹人・監修『超常現象を科学にした男 J.B.ラインの挑戦』(紀伊國屋書店/2011)を立て続けに読んだので、ふだんよりやや超心理学に同情的な気分であります。


超心理学史―ルネッサンスの魔術から転生研究までの400年

超心理学史―ルネッサンスの魔術から転生研究までの400年

超常現象を科学にした男――J.B.ラインの挑戦

超常現象を科学にした男――J.B.ラインの挑戦


少なくとも超心理学を(否定的な意味で)「オカルト」と呼ぶのは無理があるでしょう。この分野が目指してきたことはむしろ「隠された」(occultusな)ものを科学という衆人環視の舞台上へ引きずり出すことですし、しかもその方法が一定以上に洗練されているようなのですから。
もちろん、自然科学の他の分野における諸成果に大幅な書き換えを迫りかねない超心理学の主張を受け入れるべきか、ないし将来受け入れるとしたらそれはどのような条件を満たしたときなのかは、また別の(そして興味深い)問題ですが。


とにかく、“超能力麻雀”が実験と統計を利用した科学的研究の対象たり得ることが示された以上、「そんなオカルトありえません」という反論には、『超常現象を科学にした男』の帯に記されたこの言葉で再反論しなければなりません。

これはオカルトではない!


しかし、“超能力麻雀”を実験室の中に閉じ込めるのは、現実には難しいかもしれませんね。試合で熱くならないと能力が発揮できない…というのは、ありそうな話です。
『超常現象を科学にした男』の中でも、被験者の感情が能力に影響を及ぼすことや、実験室での統制された実験は退屈なので、それとの戦いが必要だったことが書かれています。やはり超常現象と実験室はあまり相性が良くないのでしょう。
特にドラッグが被験者の超能力を強化するのではないかという発想が生じた時期(後にヒッピーやニューエイジなどに影響を与えたティモシー・リアリーによる「サイケデリック革命」の始まりにあたる)の記述では、こんなことが書かれています。

実際にはLSDを摂取した被験者を対象にした実験をデザインするのは、非常に難しいことが判明した。「たとえて言うなら、被験者がバッハのプレリュードとフーガに心奪われて聴きいっているときや、あるいは愛の営みの最中に、質問票に答えを記入してくださいと頼むようなものなのです」


(220ページ)

…そりゃそうだw
でも、こうやって冷静に考えてみると、被験者松実宥だって実験室の中じゃ「あったかいのいっぱい…」(CV: MAKO)とか言ってくれないでしょうなあ。
うーん、“超能力麻雀”を科学的に研究するのはなかなか難しそうです。

  • けいおん!』は読まないよ、でも『ばくおん!!』は読むよ

“僕が見なくても他のみんなが見てくれるからなあ…”という生来のへそ曲がりと無精によって、僕は相変わらず『けいおん!』の漫画もアニメもチェックしていないのですが、タイトルがあからさまにそこからの引用である『ばくおん!!』(おりもとみまな)は、単行本1巻(秋田書店ヤングチャンピオン烈コミックス>/2012)をなぜか持っていたりします。


ばくおん!! 1 (ヤングチャンピオン烈コミックス)

ばくおん!! 1 (ヤングチャンピオン烈コミックス)


いやあ、しかしコレ、面白いよ。
タイトルのネタ元と同じく“女子高生が○○をやる”というパターンの作品でありますが、○○に入るのが「バイク」だというのがなかなかマニアック。
実際、最近バイクってカルチャーはどうなんでしょうね?僕は全然関わりがなく、持っているイメージはというと例の「盗んだバイクで走り出す」(尾崎豊)くらいなので、よく分かりません。
そこで部屋の本棚を漁ってみたところ、「秘境駅」で有名な牛山隆信さんがもともとバイク乗りだったのを思い出すことになりました。

今は一介の秘境駅訪問家となっている私も、数年前までは、オフロードバイクで林道を駆けめぐる「野宿ツーリング」のほうが鉄道の旅より多かった。
1997年の夏、私は北上山地にある林道群を走破すべく、燃えに燃えていた。林道フリークのあいだで有名な「御大堂林道」、山田線に沿って走る全線フルダートの「米内川林道」と、オフロードライダーにとっては心躍る道が続く(もちろん、普通の人にとっては、ただの悪路である)。
そんなとき、ちょっと休息しようと立ち寄ったのが浅岸駅である。


牛山隆信・著『秘境駅へ行こう!』小学館小学館文庫>/2001、58ページ)


秘境駅へ行こう! (小学館文庫)

秘境駅へ行こう! (小学館文庫)


「オフロードライダーにとっては心躍る道」だが「普通の人にとっては、ただの悪路」…まあここまで極端ではないにしても、『ばくおん!!』という作品にはバイクといういささかマイナーなホビーを持つものの姿が、少々ペーソスを含んだ笑いとともに描かれています。
第1話で主人公の佐倉羽音をバイクの道にひきずり込みたい天野恩紗は、最初「バイクの魅力…/それは…/風と/自由…!!」(23、24ページ)などと、万が一ギップルが聞いたら即座に悶絶しそうなことを言って説得しようとするのですが、それから色々と考えたあげくに結局

そりゃみんな自動車に乗りたいさ!!
屋根もあるし快適だし転ばない!!
私だってできれば乗りたいよ!!
でも女子高生が乗れるのはバイクまでなんだ
だからバイクに乗るしかないんだ!!


(33ページ)

と、一転してとっても後ろ向きな論理へとしぼんで行ってしまいます。


その後、(メーカーの)スズキ信者である鈴乃木凜が登場して「スズキ差別のファシストめ/この世のバイクが全部スズキならこんな差別はなくなるのに!!」と、いやその発想がファシズムそのものでしょうが!的なことを考えたり(第4話)、ジェームズ・ディーンの影響でバイク乗りのワルにあこがれているけれど、「無免許運転なんてそこまで極悪非道な事はでき」ないがゆえにサイドカーに乗るお嬢様・三ノ輪聖が登場したり(第5話)で「バイク部」に集う仲間が揃っていきますが、それぞれこんな調子なのでお互いよく理解し合えているとはとても思えません。
しかし、もともとバイクというのは1人で乗るものであって、バンドみたいにみんなで1つの音楽を作ろうとかそういうのではないのですから、これはこれでいいんじゃないでしょうか。
仲間がいるけど孤独である、あるいは逆に、孤独だけれど仲間がいる。うん、これは人生の1つの真実かもしれないです。「人生の酸いも甘いもすべてバイクに教わったのさ…」(遠い目をしながら)by天野恩紗(105ページ)。


それはそうと、この作品が連載されているヤングチャンピオン烈というのは、それはそれはお下品な半エロマンガ誌でして、正直この作品はやや誌面から浮いています。
こういう孤独さも僕のへそ曲がり精神にアピールしちゃうんですよねえ…。

  • いもうとよいもうとよ性的な口上のなかで売られる抒情よ

小見出しで行ったのは北川透「敵の町」の第3連1行目と第4連最終行を、本来の文脈無視でむりやり溶接するという引用の暴力です。大塚英志『「妹」の運命』(思潮社/2011/asin:4783716684が「妹」の登場する現代詩を荒川洋治「見附のみどりに」に代表させているのに対し、僕にとって「いもうと」の登場する詩といえば、この「敵の町」なものでして。
そして最近、塙治夫・編訳『アブー・ヌワース アラブ飲酒詩選』(岩波書店岩波文庫>/1988)という本を、“イスラムって飲酒ダメなんじゃないの!?”と驚きつつ読んでいたところ、ここにも「妹」が登場していました。

  魂の妹


私の飲酒を非難する人よ、忠告するならともかくも、
  私の妹のことで私を責めないでくれ。


私を魅了した者のことで私を責めないでくれ。
  彼女は私に醜いものを醜くなく見せてくれる。


彼女とは酒、健康な人を病人にし、
  病人には健康な人の衣を着せる。


私は彼女のために長者のように金を費やし、
  一旦手に入れるとけちんぼうのように大事にする。


(28、29ページ)

…やっぱり妹萌えじゃないか!いい加減にしろ!
(もっとも僕はアラビア語を知らないので、ここに出てくる「妹」が原文でもa younger sisterなのか、それともひょっとして単にa sisterなのかが分からないのですが。)


アラブ飲酒詩選 (岩波文庫)

アラブ飲酒詩選 (岩波文庫)


僕は、たぶん実際に妹がいるからなんでしょうが、妹萌えというのが理解できません。
しかし、なんとなく理解できるがゆえに始まる探求もあれば、全く理解できないがゆえに始まる探求もあります。僕の詩への接近は後者の道を通ってのものでしたし、そして妹萌えというジャンルに何らかの位置を与えたいという思いも後者のパターンです。
というところで、福田晋一『桃色メロイック』1巻(少年画報社ヤングキングコミックス>/2012)をご紹介。


桃色メロイック 1 (ヤングキングコミックス)

桃色メロイック 1 (ヤングキングコミックス)


帯には「ヤンキー×妹萌え、奇跡の融合!!衝撃BOKKINラブコメディ(ハートマーク)」とあります。
主人公の大和はヤンキーというか、ガテン系で腕っぷしの強い男でして、これは掲載誌であるヤングキングのカラーそのまんまなのですが、なぜかそいつが実の妹のまさきにマジで恋してしまっているというお話です。
で、その恋の内実は「…………すっごい…/………ムラムラする」(9ページ)というストレートなものでして、ほとんど全ての回において大和は妹で勃起してしまい、大騒ぎになります。だから「BOKKINラブコメディ」…やれやれ。


さて、最近読んだ妹モノの単行本第1巻として他に勇人『シスプラス』(スクウェア・エニックスビッグガンガンコミックス>/2012/asin:4757535112がありまして、これも相当“やれやれ…”なものなのですが、しかし『桃色メロイック』とはかなり趣を異にする作品でした。
『シスプラス』のお兄ちゃん(終始名前が出てこない)は大和と違い、3人の妹への過保護・過干渉が行きすぎてヘンタイになっている人、といったキャラクターです。
そして、とにかくその過保護具合があんまりなのですね。ネット上で岡田あーみんお父さんは心配症』(集英社<りぼんマスコットコミックス>/第1巻:1985/asin:4088533518のパピィを引き合いに出す感想をちらほら見たのですが、あのパピィでさえ刃物を持ち出すのは第1巻24ページ(第2話)が初めてだというのに対し、『シスプラス』のお兄ちゃんは7ページ目(SIS#1)で早くも包丁をひらめかせているということで、そのヤバさの一端が理解できようというものです。
こんな具合で、とにかく色々ヒドい『シスプラス』なのですが、しかしこのシスコンのお兄ちゃんはあくまで妹たちの保護者として過剰なだけなので、最終的には心温まる(?)ホームコメディとして収拾をつけることが可能です。


一方、『桃色メロイック』の大和は完全に妹に性欲の対象にしてしまっているので、読者はもうどうしようもなくインセスト・タブーを犯すものとしての妹萌えに直面させられることになります。
さらに言えば、もし近親モノの短編エロマンガのように兄と妹がごくスムーズに結ばれてしまうのなら、逆に妹萌えは意識されないことができるでしょうが、『桃色メロイック』では、大和が勃起したところで寸止めになり、その寸止めの状況が喜劇として一番盛り上がるところだということが、読者に妹萌えというジャンルを強く意識させるでしょう。男女が結ばれたらそこでラブコメが終わってしまうというのはギリシア新喜劇の時代から分かりきったことで、だから「BOKKINラブコメディ」でも寸止めが続くのは当然なのですが、しかし毎回の寸止めが笑いになるというのはそのたびに妹萌えに対する批評的な視点が持ち込まれているということに他ならないのです。
おまけにヤンキー色の強い『ヤングキング』連載であり、「ヤンキー×妹萌え、奇跡の融合!!」と謳っているのも、他ジャンルを持ち込むことによって妹萌えというジャンルをより浮かび上がらせる仕掛けだと言えるでしょう。とにかく『桃色メロイック』の喜劇性は、妹萌えというジャンルそのものへの批評性に規定されているというのが僕の見立てなのです。

いもうとよ敵の町の夜は深い
おれはおまえの広い額のなかに寝にゆこう
おまえの髪のなかで星座をさがそう


(「敵の町」最終3行)