まったく君は取り返しのつかないことをしてくれた

その内容はともかくとして、提出期限までに修論が書けたので、きのうは「第135回農林水産省賞典中山大障害(J・GI)」を現地観戦して大竹柵・大いけ垣の全馬無事飛越に皆で拍手し、熊沢騎手念願の同レース初制覇を祝福してきました。
そして年末恒例の超常特番ビートたけしの禁断のスクープ大暴露!!超常現象[秘]Xファイル』(テレビ朝日、12月22日18時30分〜20時54分)も見たので、もう2012年に思い残すことはないって感じです。


さて、その特番には、韮澤さんほかいつもの超常現象肯定派に混ざって、浅利幸彦さんが出演していらっしゃいました。とはいえ、発言がカットされてしまったのか、ただ席に座っていただけでしたが。
新撮の肯定派VS否定派論戦パートがなかったぶん、過去の名シーンのVTRが多数放映され、*1その中では浅利さんも(当時の)自説を熱心に主張されていました。
VTRの中では、そんな浅利さんに対して大槻キョージュが“自分の説を信じれば救われると言うあんたはオウム真理教の教祖みたいだ”と非難していたのですが、冷静に考えてみると信じる者が救われない宗教なんて不良品でしかないのだから、そういうイデオロギー暴露式の批判はあんまり筋がよろしくないんじゃないかと…。*2


でも僕が今回書きたいのはそんなことじゃありません。


確かに当時の浅利さんの著作は宗教的でした。
“信じる者は救われる”、すなわち“救われるから信じなさい”ということが書かれていました。
なんのために書いたのか、なんのために読まれるべきなのかという目的がはっきり分かる本であり、とても(本当にとっても)広い意味で言えば“実用書”でした。


ところが浅利さんの最新の著作である『悪魔的未来人「サタン」の超逆襲!』(ヒカルランド/2012)は、どうも違うようです。
この本では、“信じる者は救われる”可能性があった期間は確かにあったけれども、そのタイムリミットはすでに過ぎ去ってしまって、いまや人類はサタンの奴隷になるしかないということが主張されています。
つまり、この本を信じる者だって、別に救われはしないということ。
…じゃあ、なんで書いたんだよ!?


未来は奴隷制よりもひどい家畜人ヤプーの世界 悪魔的未来人「サタン」の超逆襲!(超☆はらはら)

未来は奴隷制よりもひどい家畜人ヤプーの世界 悪魔的未来人「サタン」の超逆襲!(超☆はらはら)


そう、もはやこの本は宗教的ではありません。
取り返しのつかないことを、取り返しのつかないこととして書く。
すでに書いても取り返しはつかないのだけれど、それでも書かざるを得ない。
ここにおいて本作品は、文学、としか名指しようのないものになったのです。


「あとがき」において著者は、

1999年が過ぎ、私も「全て終わったので、もう私がすることはない。これでやめられる。もうやめよう」と思った。


(274ページ)

しかし、どうしても預言のことは頭から離れずに、もう一度預言を読み直していくと、また、新しいことがどんどん解ってくるようになった。
(中略)
だが、これを一般の人に知らせたところでどうなるのだろう、という思いがずっとあった。
しかも、「まだ間に合う」というのならともかく、「もう間に合わない、こうなるしかない」というのだから、冷笑だけではなく、更なる反感を買うだろう。
それも解っていたので、公に発表するのは躊躇われた。


(275ページ)

しかし、「やはり、私は出したいのではないか」という思いが疼く時があった。
「もうやめて私の心の中だけに秘めておいた方がいい」という気持ちと「いや、出せるものなら出したい」という衝動とがせめぎ合っていたのである。


(277ページ)

と、本書出版に至るまでの心境の変化を語っていますが、僕はここに1人の文学者の誕生を見るのです。


思えば中学1年生のころの僕は、国語で「主題」を「教訓的」に書くなという指導を受け、それが全くもって不可解で憤慨していました。
「うさぎとかめ」の主題は何かと問われたら、「能力があるからといって油断してはいけないということ」ではなくて、「能力があるからといって油断した者が、能力で劣っていても努力した者に思いがけなく敗れるさま」とか書くというわけで、まあこの指導がどこまで正しいかはいまだに分かりません。
でも、「教訓」を書かせてもらえないことにヘソを曲げていた当時と違うのは、いまの僕にとって「教訓」なんてクソ喰らえだということです。
うさぎは昼寝して競走に負けてしまった。これはもう取り返しのつかないことで、以後気をつけようと思うのは、それはそれで大事なことかもしれないけれども、いくら次回からは大丈夫であろうが、今回負けてしまったという事実は変わらない。そして、そういう取り返しのつかないことがひたすらに積み重なっていくのが、僕らの人生ってものなのではないか。
…あれからとうに10年以上が過ぎ、取り返しのつかない選択をいくつもしてしまった僕には、取り返しのつかないことを取り返しのつかないこととして書くという態度が、薄っぺらの教訓よりよっぽど貴重に感じられます。


修論と一緒に、博士課程の願書出しました。
取り返しのつかない人生に、救済は最初からないのです。

人は、誰も生きない、
このように生きたかったというふうには。
どう生きようと、このように生きた。
誰だろうと、そうとしか言えないのだ。


長田弘「机のまえの時間」より)

*1:なにしろこの特番、今年で15年目だそうです。

*2:結局、宗教を批判するなら、その思想と実践を具体的に検討した上でやらなきゃいかんでしょ、というのが僕の面白くも何ともない意見であります。